ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

葬送

 空港に降り立ったとき、彼は思わず口を覆い、目を細めた。

 黄砂が街を覆っていた。まともに息を吸えば肺のなかまで冒されそうな気がして、彼はハンカチで口元を隠して呼吸を浅くした。煙のなかに立っているような気分だった。

 こんなところで人は暮らしていけるものなのかと思ったが、地元のポーターやタクシーの運転手はマスクをするでもなく、普通に会話を交わしている。人間はどんな環境でも順応できるのだということを思い知らされた。

 タクシーの後部座席に座ると、空気が濁っているせいなのか窓が汚れているせいなのか、まったく前が見えないことに不安が募った。しかし運転手は慌てる素振りも見せない。自分には見えない景色が、この運転手には見えているのだろう。やや荒い運転だったが、タクシーは事もなく走り出した。

「ひどい黄砂だな。あっという間に体中が砂だらけだ」
 どうせ言葉が通じる訳がないと高をくくってつぶやいたのだが、運転手はさも納得げにうなずいて、窓の向こうを指差した。

 子どもたちが走り回っていた。歓声を上げて、棒切れを振り回している。家の軒先で、親の帰りを待っているのか所在なくたたずんでいる子どももいる。いずれもみすぼらしい身なりをしていたが、屈託のない笑顔がなんだか悲しく思えた。そう感じることは果たして驕りなのだろうかと自問した。

 


「私が死んだら、海の見える丘で遺骨を撒いてほしい」


 病床で妻が告げたのがこの街だった。妻の生まれ故郷だった。生きているかは分らないが、両親と2人の弟が住んでいるはずだと言っていた。

 運転手には印をつけた地図を渡してある。どうせ正しい道を進んでいるかなど分らない、彼は気にせず目を閉じた。

 火葬場で拾った妻の遺骨は黄色味を帯びていた。長期にわたる投薬のせいだった。あんなに純な女だったのに。一緒に出かけるときは必ず白い服を着ていたのに。ままならなかった半生を恥じて、せめてこれからは清らかに生きたいと願っていたのに。最後に残った骨が黄色かったのが、切なくてやりきれなかった。

 旅の疲れで眠りに落ちていたらしい。運転手が呼ぶ声で目を覚ますと、目的の場所についていた。30分ほどで戻るから待っていてくれと身振り手振りで伝えて行きの代金とチップを渡すと、運転手は満面の笑みを浮かべて「オーケーオーケー」と繰り返した。しかし彼が外に出ると、何事もなかったように車を走らせてしまった。トランクにはスーツケースを入れたままだ。追いかけようとしたがもう遅い。貴重品は身につけているし、一番大切なものは手元のカバンに入れてある。どうせ盗まれて困るものなどないのだと、彼はあきらめて丘の向こうに視線を移した。

「こんな寂しいところで……」
 思わず口にしていた。黄砂にさらされた丘は花一本生えていなかった。芝生も無惨にしおれていた。都市部に比べれば多少見晴らしはいいものの、ここもやはり、黄色い空気が視界を濁らせていた。

 カバンから遺骨を入れたケースを取り出し、近くにあったベンチに座った。積もった砂を払おうかとも思ったが、どうせ砂にまみれるのだからとやめておいた。

「一緒にあの丘で、夕陽を見たかった」と妻は言っていた。ここまで黄砂がひどいとは、妻も思わなかったのだろう。遺骨のケースを隣に置いて、彼はまた目を閉じた。

 思い出に浸るには、ともに過ごした時間が短すぎた。もっと話をすればよかった。もっと優しくすればよかった。まっすぐ妻を見てやればよかった。頭に浮かぶのは後悔ばかりだった。

 また、うとうとしていたらしい。目を覚ますと今まさに、陽が沈むところだった。黄色の空気に、金色の陽が広がっていく。あんなに汚いと思っていたものが、この一時だけ神々しく光を宿している。彼の前に影はなく、ただ光があるばかりだった。

 ターナーの「レグルス」を思い出した。このまま目がつぶれてもいいと思った。炎のような光だった。

 金色のなかを、白い鳥が飛んでいく。それと入れ替わるようにセスナが尾を引いて飛んでいく。彼は立ち上がり、眼下の海に向かって遺骨をばらまいた。足もとから吹き上げた風が、黄色い灰をさらっていった。妻が残していったものは、黄砂と混じり、金色の光に溶け込んでいった。