ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン (1.ガラスの部屋で)

 ぼくはバカだから、昔のことなんて覚えていられない。嫌なことがあっても都合良く忘れてしまうし、いいことなんて起こるはずもない。からっぽな頭で、何をするでもなく時間を消費するばかりだ。

 ぼくはどこで生まれたんだっけ。仲間たちは今、どうしているんだろう。そもそも仲間なんていたんだろうか。ぼくはずっと一人ぼっちだったのかもしれない。これからもずっと一人ぼっちなのかもしれない。考え出すときりがないけど、すぐに疲れて眠たくなってしまう。そうして目が覚めたときには、たくさん考えたことなんてすっかり忘れて、虚ろな目をしてこの狭い世界をさまようんだ。

 ここにはホントに、何もない。透明なガラスで囲まれた部屋は息苦しくて、のけぞるように顔を上げないと窒息してしまいそうだ。ガラスの壁はどこもカーブを描いていて、うつり込んだ自分の顔も歪んで見えて、頭がおかしくなってしまう。下を見れば丸いガラス玉が敷き詰められていて、キラキラと光を放っている。確かにきれいなんだけど、それが一日中続くんだ。横を見ても、下を見ても、目が疲れてしまう。だから自然と、ぼくは上を見ることになる。

 上を見たって結局は同じことなんだけどね。他に比べたらまだマシなだけだ。歪んで見えるのは変わらないけど、うつるのは真っ白な天井だから、それほど気にならないっていうだけ。幸いなことに、ぼくの顔もここにはうつり込まない。

 ここに来る前のことを、ほんの少しだけ覚えている。今の何十倍もの広さで、壁も床も真っ青だった。ぼくらの頭上では丸くて白い大きなものがすべるように動いていて、ぼくたちを追い回した。その前は、ぼくはどこにいたんだろう。どうしてここに来てしまったんだろう。そのへんのことは、全然覚えていないんだ。忘れたほうが都合がいいからなんだろうね。きっと嫌なことがあったんだろう。

 1日に2回、上から食べ物が降ってくる。おなかがすいて待ちきれなくて、その気配を感じると、ぼくは頭がしびれたようになって、勝手に体が動いてしまう。みっともないけど、必死に口をあけて、食べ物をとらえようとするんだ。そのときはもう、何も考えられない。それが恥ずかしいと感じることもできない。ただただ夢中で、あとでふと我にかえって、すごくみじめな気持ちになるんだ。

 でもさ、何も起こらない単調な毎日のなかで、たったひとつのイベントがごはんの時間なんだ。そりゃあ夢中になってしまうよ。そのときだけは一生懸命体を動かして、もっとごはんをくださいってアピールするんだ。

 ごはんをくれるのは、大きな体をした怪物だ。ぼくの何百倍、それよりもっと大きいかもしれない。ぼくの体に触れようとはしないし、ごはんの時以外は、ガラスの向こうからときどきじいっと覗き込むだけだ。きっと悪者ではないんだと思う。それでもぼくは、彼のことが怖いんだ。彼の機嫌をそこねたら、ぼくはご飯を食べられなくて死んでしまうかもしれないからね。だからなるべく、おなかがすいてることをアピールしなくちゃいけないわけだ。みじめな気分だけど、生きて行くためには仕方ない。

 おなかがいっぱいになったら、糞をしぼり出す。部屋の中が汚れてしまうけど、こればっかりはどうしようもない。おしりに糞をぶら下げたまま、ぼくはきっと間抜けな顔をしているんだろう。恥ずかしさやむなしさを通り越して、このときにはもう、何も考えられなくなっている。考えてしまったら、きっと生きてはいけないだろうから。



 ここに来てから、どのくらいの時間がたっただろう。いつものようにぼんやり動き回っていたら、何かが弾けるような音が上のほうから聞こえて、振り向いたらたくさんの泡が視界を覆っていた。しばらくして泡が消えると、そこにははじめてこの世界で出会う、ぼくと同じ姿をした仲間がいた。女の子だった。

「あの、こんにちわ」
 おそるおそる話かけると、彼女はぷいっと顔をそむけて、向こうへ行ってしまった。向こうといっても狭い部屋だから、すぐにまたぼくと向き合うことになるんだけれど。それでもようやくできた仲間に無視されたのは、かなり哀しかった。

 彼女はぼくと同じでまっ赤な体をしていたけど、首のまわりだけが白かった。オシャレな子だな、と思った。ぼくみたいにどんくさくて気がきかないやつは嫌いなんだろうか、それから3日くらいは口もきいてもらえなかった。

 ごはんの時間になっても、彼女はぼくみたいにみっともなく口をあけて上を向くこともなく、ずいぶん淡々としていた。2人しかいないからごはんを巡って争う必要もないんだけど、どうしてそんなに平静でいられるのか、ぼくは不思議だった。育ちが違うんだろうか。彼女の立ち居振る舞いを見ていると、自分はすごく卑しいんだなと思わずにはいられなかった。

「狭いわね、ここは」
 それが彼女が一番最初に発した言葉だった。急だったのでちゃんと聞き取れなくて、もう一回言ってもらった。彼女は不機嫌そうに、ここは狭いと言った。
「君がいたところはもっと広かったの?」
「わからない。覚えていないの。ただ、こんなに狭いところではなかったと思う」

 ああ、彼女もぼくと同じなんだ。自分がどこにいたのか、思い出せないんだ。でも、それを知っていたからどうなるというんだろう。どんなに素敵な過去があったとしても、ぼくたちの今は変わらない。それだったら、思い出なんてないほうが幸せなんじゃないだろうか。

「ねぇ、私たち、ずっとここから出してもらえないのかな」
 彼女は哀しそうな目をして、そう言った。きっとぼくより頭がいいんだろうな。だからこの世界に、すぐに嫌気がさしてしまったんだろう。ぼくみたいなどんくさいやつと一緒にいるのが嫌なのかもしれない。

 分からないって答えると、彼女は残念そうにぼくをじっと見て、それから向こうへ行ってしまった。やっぱり嫌われてしまったんだろうな。ぼくは不甲斐ないから。

 それでもぼくは、仲間ができてうれしかった。友達とはいえないかもしれないけれど、一人でいるよりはよっぽど幸せだ。たまにしか返事をしてくれなくても、困ったときに話しかける相手がいるというのは、これはすごくありがたいことなんだ。



 あるときあの大きな怪物が、ごはんの時間でもないのにやってきて、じっとぼくらを見つめていた。ぼくはもう慣れっこだったけど、彼女は怯えて逃げ回っていた。狭い部屋だからどこにも逃げようがないんだけど、そうせずにはいられなかったんだろう。

 突然怪物が部屋のなかに手を突っ込んで、彼女の体をわしづかみにした。彼女は金切り声をあげて、なんとか逃げ出そうと暴れ回ったけど駄目だった。ぼくも必死で彼女を助けようとして、何度も怪物の手に体当たりをしたけど……大きさが違いすぎて、何の効果もなかった。彼女はそのまま持ち上げられて、部屋の外へ連れて行かれてしまった。

 彼女はどうなってしまうんだろう。殺されてしまうんだろうか。それとも食べられてしまうの? 考えれば考えるほど哀しい気持ちがふくらんで、胸が張り裂けそうだった。でも、それも束の間だった。ほとんど間を置かずに、怪物の手がぼくの体をつかんで持っていってしまったから。

 心臓が止まるかと思った。目がぐるぐるまわって、どっちが上でどっちが下なのかも分からなかった。外の世界がどうなってるのか、確かめる暇さえなかった。気が付いたらぼくは、今までよりもっと狭い部屋に閉じ込められていた。

 彼女も一緒だった。それだけが救いだった。不安そうな彼女を見たら、目が回っていたことなんて忘れてしまった。

「大丈夫? 怪我はなかった?」
 そう聞くと、
「大丈夫だけど……私たち、どうなっちゃうの?」
 と、彼女は怯えて肩を震わせた。

 ガラス越しに怪物の姿を見ると、奴はぼくたちが住んでいたガラスの部屋をひっくり返していた。なんてことをするんだろう! あれだけ逃げ出したいと思っていたのに、自分が少しの間とはいえ過ごしていた場所を台無しにされるような気がしてひどく気分が悪かった。

「やっぱり私たち、殺されちゃうのかな」
 彼女はそう言って、そんなの嫌だと涙ぐんだ。ぼくだって、このまま死にたくなんてない。彼女が死んでしまうのも嫌だ。なんとかして守ってやりたい。けれど、ぼくと怪物ではあまりにも大きさが違うし、どうやったらここから出られるのかもわからない。ぼくは自分の無力さに絶望しながら、黙って見ていることしかできなかった。

 こういうときに限って、時間がたつのがずいぶんゆっくりに感じられる。行き着く結末は同じはずなのだから、いっそ早送りで時間が流れていけばいいのに。神様はこういうときに残酷だと思う。心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらい、ぼくらは息を詰めて怪物の背中を見つめていた。

「ねえ」
 ぼくが目を血走らせて周囲を警戒していると、彼女が不意につぶやいた。
「さっき、私のことを助けようとしてくれたんだよね」
「あぁ、夢中だったからよく分からないんだ。ごめんね、役立たずで」
 ぼくが謝ると、彼女はいっそう悲しそうな顔をした。どうして謝るのかと問いたげだったけど、結局それっきり何も言わず、ガラスの向こうを見つめていた。

 やがて怪物が近づいてきて、今度はガラスの小部屋ごと、宙に持ち上げられた。このまま地面に叩き付けられるんじゃないかと目を閉じていたら、激しい音とともにぼくの体はたくさんの泡に囲まれた。あぶくのつぶてが次々にからだに当たって弾けて行った。そうしてまわりが落ち着いていくと、ぼくたちは元の部屋に戻されたことがわかった。こころなしか、ガラスがきれいになったような気がする。緊張のせいで息が苦しかったけど、なんとなく過ごしやすくなったような気がする。

 それでもぼくらは、何が次に起こるのか分からなくて、身を寄せ合って震えていた。怪物がいなくなってしまうまで、ぼくはずっと肩をいからせて、なんとか彼女を守ろうとしていた。

 この奇妙な儀式は、その後も定期的に行われた。何の前触れもなく、ぼくらは狭い部屋に移されて、その間に怪物はガラスの部屋をきれいにしていくらしい。それを思うともしかしたらいいやつなのかもしれないけど、あまりにもやつは大きくて、たとえ親切心であったとしてもぼくらの寿命を縮めることにしかならなかった。

 彼女は決して打ち解けてはくれなかったけど、このときを境にぼくを頼ってくれるようになった。彼女はたとえごはんの時間であっても、怪物が近づいてくるとパニックに陥って逃げ回った。彼女を慰めて、勇気づけるのがぼくの役割だった。

 一人でいるときは退屈で仕方なかったけど、こうしてぼくには、ごはん以外にもやるべきことができた。怠惰な時間は相変わらず多いけど、やるべきことが分かっていれば、時間がたつのも早く感じられる。どのくらい自分が生きられるのか分からなくても、とにかく彼女のために生きようとぼくは誓った。