ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン(終. 2人は空気の底に)

あれからどのくらいの時間がたっただろう。ぼくはまた、いろんなことを忘れかけていた。相変わらず彼女はほとんど口をきいてくれないから、記憶を確かめ合うこともできない。ぼんやりとごはんのことを考えて、無意識に排泄をして、やがて眠りに落ちる日々が…

カノン(3.敵)

奇妙な共同生活がしばらく続いた。彼は何かあるとぼくらを励まそうと、一生懸命話しかけてくれた。最初はぶっきらぼうなやつだと思ったけど、気持ちのやさしいやつだったんだ。 でも、ぼくも彼女も、彼の好意に応えてあげられなかった。彼女もきっと、ぼくと…

カノン (2.外の世界)

ある日、怪物が新たな同居人を連れてきた。ぼくたちとは体の形も色もまったく違っていて、細くて銀色の、小さな体をしていた。言葉が通じるのかわからなくておそるおそる話しかけると、彼は目をぱちくりさせて答えた。 「なんだよ、金魚の水槽か。おれもやき…

カノン (1.ガラスの部屋で)

ぼくはバカだから、昔のことなんて覚えていられない。嫌なことがあっても都合良く忘れてしまうし、いいことなんて起こるはずもない。からっぽな頭で、何をするでもなく時間を消費するばかりだ。 ぼくはどこで生まれたんだっけ。仲間たちは今、どうしているん…

見張り塔の上から

その塔からは、はるか地平の先までも見通すことができた。高い建物など他に何ひとつないこの村で、塔の影は長々と横たわり、太陽の動きとともに円を描くように大地をすべっていった。 アムギがこの見張り塔のうえで暮らすようになってから、どれくらいの年月…

水遊び

うだるような、暑い夏の午後だった。直子がウチワで涼をとっていると、玄関のベルが鳴った。ずいぶんせっかちな鳴らし方に感じられた。少なくとも近所の住人たちは、このような鳴らし方をしない。 宅配便かと思い、重い腰をあげて玄関をあけると、そこに立っ…

釈迦と阿修羅

一 「罪深い」という言葉があるが、罪の深さは地獄の深さに直結する。東洋では大きく8つに分かれ、これを八大地獄、あるいは八熱地獄などと呼ぶ。 地獄では永遠に責め苦が続くわけではないが、蚊を殺した程度の罪でさえ、許されるまでに1兆6653億1250万年も…

ツルトンタン[補記]

太宰治の短編「トカトントン」のパロディです。 勢いだけで書いた感じ。他には何もございません。 「建築関係トントントン」でもいけるかもしれない……。 ヴィヨンの妻 (新潮文庫) 作者: 太宰治 出版社/メーカー: 新潮社 発売日: 1950/12/22 メディア: 文庫 …

ツルトンタン

拝啓。 一つだけ教えて下さい。困っているのです。 私はことし三十三歳です。十年勤めた神田の出版社を辞めて、この夏から六本木の広告会社で働きはじめました。広告会社と申しましてもやっていることは色々で、健康食品も売りますし化粧品も売りますし、占…

葬送[補記]

Wake Owlの「Gold」という曲がありまして、 そのPVをもとに書いた短編小説になります。 黄色くざらついた映像が、黄砂のように感じられたわけですね。 Wake Owl - Gold [Official Video] 一見、醜と思えるものも、ある一瞬だけ美に転じることがある。 死と生…

葬送

空港に降り立ったとき、彼は思わず口を覆い、目を細めた。 黄砂が街を覆っていた。まともに息を吸えば肺のなかまで冒されそうな気がして、彼はハンカチで口元を隠して呼吸を浅くした。煙のなかに立っているような気分だった。 こんなところで人は暮らしてい…

思い川 [補記]

永井荷風の「すみだ川」をベースにした短編小説です。 思い川は本来「思川」と書きますが、 なんとなくこれだと情緒に乏しい感じがして「い」を追加した次第です。 作中に出てくる「泪橋」も実在した地名で、 近くに刑場があったことから、罪人とその家族や…

思い川

四月の半ばの夕暮れどき、墨田川の堤は人もまばらではぐれる心配なんてなかったけど、あんたは黙って私の手を引っ張ってくれました。そうなることを察して左側を歩いていた自分が、少し浅ましく思えました。指輪を外す度胸もないくせに、こうしてあんたの隣…