ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン(3.敵)

 奇妙な共同生活がしばらく続いた。彼は何かあるとぼくらを励まそうと、一生懸命話しかけてくれた。最初はぶっきらぼうなやつだと思ったけど、気持ちのやさしいやつだったんだ。

 でも、ぼくも彼女も、彼の好意に応えてあげられなかった。彼女もきっと、ぼくと同じことを考えていたんだろう。この世界から、逃げ出すことはかなわない。死ぬまでここで暮らさなければいけない。夢がついえてしまったら、何を頼りに生きて行けばいいのか分からなかった。

「もう、秋なんだな」
 彼はある日、しみじみとした口調で言った。
「秋ってなんだい?」
 ぼくの質問がよほどおかしかったのか、彼はひとしきり笑ったあと、ごめんごめんと謝った。

「そうだよな、ずっとこの家のなかにいたんなら、季節のことを知らなくても無理はないよな。外の世界には四季っていう4つの季節があって、春、夏、秋、冬って順に繰り返していくんだ」

 彼がここに来たのが夏で、今はその次の秋という季節らしい。
「でも、どうしてそんなのが分かるの? 何かが変わるの?」
 ぼくが聞くと、彼はあれを見ろよ、といって、ガラスの向こうに落ちた赤いものをさした。
「真っ赤だろう? お前らの体みたいだ。あれは紅葉っていうんだ。夏までは緑色なんだけど、秋になると赤くなるんだよ」

 ふだんは外にある木というものについているらしいけど、どこからか迷い込んできたらしい。確かにぼくと同じような色をしていたけど、もっと寂しい雰囲気だった。

 秋の次には、冬がやってくるのだと彼は言った。冬はとても寒くて、水の表面が凍り付いてしまうのだそうだ。水面が固まって、顔を出せなくなるのだという。そしたらごはんが食べられないじゃないかと言ったら、外の世界では、餌が上から降ってきたりはしないんだと笑われた。

 冬になると、世界から色がなくなってしまう。白と黒に覆われてしまう。だから冬はつまらないのだと彼は言う。でも、その時期を乗り越えれば春がやってくる。春になると、世界はたくさんの色に包まれる。赤や黄色や緑。ぼくが知らないたくさんの色が、あちこちでこぼれ出す。そして川のなかでは、たくさんの命が生まれるのだという。

 彼の話は、ぼくらにとっては残酷なほどに魅力的だった。とちゅうで彼もしまったという顔をしていたけど、無理に頼んで話を続けてもらった。見ることがかなわないとしても、世界がどういうふうに動いているかは知っておきたかった。少しでも多くのことを、ぼくは知りたかった。

 でも、彼女はちがった。あの日以来、ふさぎこんだままだ。はじめてここへ来たときのように、話しかけてもそっぽを向いてしまう。これには彼も気をもんでいたけど、彼女の笑顔を取り戻すことはできなかった。ぼくと彼がこうして外の世界の話をしていても、われ関せずとゆがんだガラスの向こうを見つめていた。

 ごはんをあまり食べていないのも気になった。からだがひとまわり小さくなってしまったような気がする。もともと彼女は小柄だったけど、いたいたしいくらいにやせてしまった。病気なのかもしれない。どうしたらいいんだろう。ぼくにできることは、なんとか彼女に笑ってもらおうと話しかけることだけだった。それが彼女を傷つけているなんて思いもせずに、ぼくは外の世界への思いをあれこれ語った。

 手の届かない夢を嬉々として語るなんて、ずいぶん馬鹿げているだろう? 実際ぼくは、なんどもあきらめようと思ったんだ。でも、彼が語る外の世界の話は、あまりにも輝かしくてうらやましかった。何度も無理だと自分に言い聞かせたけど、それでもあこがれは消えてはくれなかった。ぼくは馬鹿だから、だめだと分かっていてもやめられないんだよね。

 きっと彼女は、そんなぼくに愛想をつかしたんだろう。もともと愛想があったかどうか分からないけど、それまでよりもぼくのことを嫌いになってしまったのだと思う。

 彼女も最初は、外の世界に対して希望をいだいていた。でもそれは、ぼくの夢とはまったく違うものだったのだろう。彼女の希望は切実だった。ぼくの夢はのんきだった。そのちがいは大きいよ。夢はかなわなくても夢のままであり続けるけど、希望はちがう。かなわなければ、それは絶望になってしまう。

 できることなら彼女の絶望に、彼女の孤独に寄り添っていたい。ぼくにできることはそれしかないと思う。けれど彼女はかたくなで、ぼくは途方に暮れてゆらゆらと漂うだけなんだ。

 


 奇妙なぼくらの生活は、そう長くは続かなかった。いつものようにのんびりと体を浮かべていると、ガラスの向こうをじっと見て彼がこう言った。
「大丈夫かな、嫌な予感がする」
 ぼくは何のことかわからず、彼の視線の先を追った。

「どうしたの? 何かあった?」
 考えても分からないのでそうたずねると、彼は外が見えるだろう、と言った。
「あそこから、緑が見える。今までは見えなかったのに」
「秋になると緑は赤くなるんじゃなかった?」
「緑のままの葉っぱもあるんだよ。そういうことじゃなくてさ、外が見えるってことは、外とつながってるってことだろ。敵が来なければいいんだけど」

 何を恐れているのか、彼はそわそわと体をふるわせた。敵と言っても、ぼくには想像もつかないから怖がりようがない。唯一知っているのはあのでっかい怪物だけど、ごはんをくれる時以外は近づいてこないし、特に危害を加えられたこともない。定期的に、べつの部屋に無理矢理うつらされるだけだけど、それもこの部屋をキレイにするためなんだと途中で気づいた。

「敵って、どんなやつなんだい?」
「いろいろだよ。そもそもここは小川とは環境が違うから、どんな敵があらわれるかよくわからないんだ。案外安全なのかもしれないけど、用心しとくにこしたことはないけ」

 警戒するように、彼は部屋のなかをゆっくりと、ぐるぐる回り出した。ぼくはどうしていいか分からなくてぼんやりたたずみ、彼女は相変わらず黙りこくったまま、冷たい目で彼の動きを眺めていた。

 そのとき、何か黒い影のようなものが視界の端にうつった。気づいたのはぼくだけだったらしく、彼は相変わらずぐるぐると部屋の中を回遊していた。

 その影がなんだったのか、確かめるまでもなかった。あっという間に、ガラスの部屋の正面に大きな茶色い影が立ちはだかった。あの怪物よりもはるかに小さいけれど、ぼくらの体に比べたらはるかに大きい。この部屋と同じくらいの大きさだろうか。凶暴そうな顔をしていて、牙がてらてらと輝いていた。細めた目に魅入られたように、ぼくはそのまま動けなくなった。

 彼は茶色い影の姿を認めると、少しでも距離を取ろうとあわてて後退した。
「猫だ、つかまったら殺されるぞ」
 そう言って、ぼくと彼女にも逃げるように促した。

 けれど、あまりにも恐怖心が大きすぎて、ぼくは身動き一つ取れなかった。彼女も同じだったのだろう。うつろな目をして、部屋の底に身を横たえていた。ガラスの玉を抱きしめるように、彼女の体は深く沈みこんでいた。

 茶色い影は部屋のまわりをぐるぐる回って、やがて身を乗り出して部屋の天上に手をかけた。部屋が激しく揺れて、さざなみだった。ガラスの壁が割れてしまいそうで、ぼくはもうその姿を見ていられなかった。

「やつの手の先に尖ったものが見えるだろ、あれは爪だ。触っただけで殺されちまう」
 彼の言葉にうなずく暇もなかった。パシャッという音とともに、毛むくじゃらの腕が部屋に侵入してきた。鋭い爪が見て取れた。ぼくたちの体とは似ても似つかない、凶暴な形状だった。

 空間を切り裂くように、そいつの腕は斜めに振り下ろされた。その先には、恐怖で体が硬直してしまった彼がいた。

 次の瞬間、激しい水流が天上に向かってわきおこり、彼の体が吸い込まれていった。ぼくも彼女も、体を持って行かれないように目を閉じて必死で耐えることしかできなかった。

 目を開けると、彼の体が宙を舞っていた。ガラスの部屋よりもはるか上方に彼の体は浮かび上がり、その動きを追いかけるように、茶色い腕が弧を描いていた。

 たくさんのしずくが、光をはらんで弾けていった。彼の体も今にもはちきれそうなくらい、銀色の光をたずさえていた。音もなく、言葉もなく、彼はきらきらと輝きながら堕ちていった。

 そのあと彼がどうなってしまったのか、ぼくには分からなかった。落下する彼の体を追って、茶色い影も姿を消した。それっきり、奇妙な静けさがあたりを包み込んだ。恐怖はさめることなく、震える頭で彼の最期を思った。

 ふと横を見ると、彼女が目を大きく見開いて、彼が落ちて行った方に見入っていた。魅入っていたといったほうが正しいかもしれない。そこに恐怖の色はなかった。うち震えるような、歓びの表情だった。そしてぼくの視線に気づくと、
「また私たちだけになっちゃったね」
 と言った。