ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン (2.外の世界)

 ある日、怪物が新たな同居人を連れてきた。ぼくたちとは体の形も色もまったく違っていて、細くて銀色の、小さな体をしていた。言葉が通じるのかわからなくておそるおそる話しかけると、彼は目をぱちくりさせて答えた。

「なんだよ、金魚の水槽か。おれもやきが回ったってことだな」
 彼はそう言って、部屋の周囲をぐるっと移動した。小柄な分、動きもずいぶん素早かった。

「あの、はじめまして」
「ああ、これからよろしくな。ずっとここで暮らすのかと思うとうんざりするけど、まあこれも運命だと思ってあきらめるしかないんだろうな」
「運命?」
 ぼくが繰り返すと、彼はそうだ、運命だと言ってにやっと笑った。

「まぁ、案外ここで暮らしてたほうが安全かもしれないからな。敵がいないのは何よりだ」
「もしかして……」
 ぼくは胸が高鳴ってはじけてしまいそうなのをこらえて聞いた。
「ここに来る前のこと、覚えているんですか?」
「当たり前だろ、今日つかまったばかりなんだ。覚えてるに決まってるじゃないか」
 彼はずいぶん不思議そうな顔をしていた。そうか、覚えてるのが当たり前なのか。自分や彼女が何も覚えていないことなんて忘れて、ぼくは彼の言葉の続きを待った。

「そうか、あんたらみたいに作られた魚は、記憶がなかったり寿命が短かったり、どこかしらおかしなところがあるって聞いたことがある。まぁ、俺だって自分がまともだなんて思ってないけどさ。ここにいたらみんな同じだしな」
 彼はぼくらのことを「作られた魚」と表現した。作られた? よく意味が分からなかったけど、ぼくが知りたかったのはそんなことじゃないんだ。こことは別の世界のことを、彼が暮らしていた場所のことを聞きたかった。

 ぼくがせかすと、
「そんな思い詰めたような顔をするなよ。時間はたっぷりあるんだからさ」
 彼はそう言ってぼくらをじらして、ゆっくり話し始めた。

 彼が住んでいたのは、こことは比べ物にならないくらい広い、小川というところだった。そこにはいろんな魚がいた(ぼくらは見た目は違うけど、同じ魚という仲間らしい)。魚以外にもたくさんの生き物がいて、楽しいことと危険なことが交互にやってくるような、慌ただしい毎日だったんだそうだ。彼にはたくさんの兄弟がいたんだけど、ほとんどが怪我や病気で死んでしまったらしい。怪我の原因を、彼は語ってくれなかった。それは聞かないほうがいいって、そう言うんだ。

 彼が住んでいた小川という場所は、いつも同じ方向に水が流れていくらしい。このガラスの世界とは大違いだ。ここでは風も吹かなければ、波も立たない。過ぎて行くのは時間ばかりだ。

 ぼくらの世界はどんなにゆっくり泳いでもすぐに同じ場所に戻ってきてしまうけど、彼がいた小川は、その気になればどこまででも泳いでいけるらしい。
「はじまりも終わりもないんだ」
 彼はそう言って笑ってた。

 どこまでも続く世界。終わりのない世界。ぼくはそれを見てみたいと強く思った。彼女も目をキラキラさせて聞いていた。もうこんな狭い世界はうんざりだったから。

 ぼくらがしきりに「すごい」と言ったりため息をもらしたりしていると、彼はあきれたような顔で、
「あんたらが知らないだけで、世の中はもっと広いんだぜ。俺も見たことはないけど、俺がいたところよりもっともっと広い川だってあるらしいし、世界中の川は、海ってところにつながるんだってさ。終わりがないっていうのは、そういうことだ」

 ぼくは頭が悪いから、彼の言う海っていうところがどれくらい広いのか、想像もつかなかった。いつかぼくも、ここを出て海で泳ぐことができるんだろうか。あんまり広いと迷子になってしまうかもしれない。彼女と離ればなれにならないように気をつけないといけない。そんなバカなことを考えていた。

「わたしたち、もうここから出られないの?」
 ぼんやりしてるぼくを横目に、彼女が言った。当然の質問だ。ここを出なかったら、外がどんなに広くても意味がないんだから。やっぱり彼女は頭がいいなと感心してしまった。

 彼は難しい顔をして考え込んでしまった。あんまり彼女が真剣な表情だったから、ふざけるわけにもいかないと思ったんだろう。口は悪いしぶっきらぼうだけど、いい人なんだと思った。

「絶対無理だとは言わないけど、難しいだろうな」
「難しいことなんて分かってる。でも、絶対無理じゃないんなら、何か方法があるんでしょう?」
「いや、方法なんて分からないよ。俺だってここに来たばっかりなんだ。やり方があるんなら、俺が知りたいくらいだ。ただ……」

「ただ?」
 ぼくと彼女は声をそろえて聞き返した。
「ごくたまに、やつらにつかまった仲間が戻ってくることがあるんだよ。やつらは人間っていうんだけどな、俺たちをこうして閉じ込めて生かしておくためには、毎日餌を与えないといけないし、水が濁らないように注意しないといけない。それが面倒になって、捨てにくるんだよ。あんまり身勝手だし頭にくるけど、まぁそういうことだ」

 可能性があるとわかって、小躍りしたくなるくらいうれしかった。希望があるのとないのとでは、まったく違うからね。その日が来るかもしれないのなら、一生懸命生きようと思った。でも、彼女は違ったんだ。どんどん表情が暗くなっていった。涙は見せなかったけど、苦しそうな顔をしていた。

「それじゃあ、なんの確証もないのに待ち続けないといけないの? その日が来ないかもしれないのに? わたしはそんなに待てない。自分の力でなんとかしたいの」
「言いたいことは分かるよ。でも、どっちが幸せなのかも考えたほうがいい。外の世界は確かに広いし楽しいこともあるけど、あんたらが生きていくには過酷すぎると思うよ」
「どうしてそんなことが分かるのよ? 私は、どんな危険が待っていようとここから出たいの。こんなところで死にたくないのよ」
 彼女は肩を震わせて泣き出した。ぼくは何もできず、ただおろおろするばかりだった。そりゃあ、彼女の気持ちは痛いくらい分かるよ。ぼくだってこんなところからはおさらばしたい。寿命が縮まってしまうとしても、外の世界で暮らしてみたい。

 でも……彼女には口が裂けても言えないけど、なんだかんだでここの生活に慣れてしまった自分がいるんだ。黙っていてもごはんが食べられる。敵に襲われる心配もない。彼が言うには、外の世界には敵がたくさんいて、安心して眠ることもできないそうだ。ごはんだって、満足に食べられないことがしょっちゅうあるらしい。生まれながらにそういう環境で育ってきたのならまだしも、ぼくらみたいな世間知らずがそこに飛び込んで、うまくやっていけるか自信がないんだ。

 それにぼくは、彼女と静かに過ごしていたかったんだ。ホントは2人きりでいたかったけど、それはこの際仕方がない。いずれまた仲間が増えてしまうかもしれないけど、なるべく彼女のそばに寄り添っていたかった。

 彼女がそんなことを望んでいるかは分からない。それでもぼくは、彼女が好きなんだ。だって、たった一人の仲間だったんだから。ずっと悲しみを分かち合ってきたんだから。彼女のために、ぼくは生きて行きたいと思ったんだ。

 

 その日の晩、考え疲れて眠っていると、誰かが体を突つくのに気づいて目が覚めた。彼が怖い顔をして、こちらを見ていた。
「悪いな、起こしちまって。2人で話がしたかったんだ」

 見ると、彼女はぼくらに気づかず眠ったままだった。こんな狭いガラスの部屋だから、起こさないように小さな声で話さなければいけない。

「昼間の話の続きかい?」
 ぼくが聞くと、彼はだまってうなずいた。
「お前はあのとき全然意見を言わなかったからさ。やっぱりあの子と同じで、外に出たいのか?」

 どう答えるべきか、正直迷ったよ。外に出たいという気持ちも真実だし、ここに留まりたいという気持ちも真実なんだから。ずいぶん矛盾しているけど、だからどうしたらいいのか分からなかったんだ。

 だからぼくは、彼女と行動をともにしたいと伝えた。彼女がここにとどまるのなら、気持ちが沈んでしまわないように慰めてあげたい。彼女が外の世界に行くことを望むなら、あらゆる危険から守ってあげたい。そして彼女がどちらを選ぶにしても、それを止めることはしたくない。後悔させたくないんだ。

 もちろんそこまでの思いは言わなかったけど、彼は納得してくれたみたいだった。困った顔をしていたし、無謀だって言われたけど、ぼくの気持ちは理解してくれたみたいだった。

「悪いけど、どうすればいいか、今すぐに答えは出ないよ。俺だってここから出られるものなら出たいけど、まだ方法が思いつかないからな。それまではじっと待つしかないぜ」
「待つのは慣れてるよ。今までずっと、ここにいたんだから」

 ぼくが言うと、彼はかすかに笑ってみせた。ここにきてから、はじめて笑顔を見せてくれたような気がした。でも、その笑顔もほんの一瞬だった。彼はまた怖い顔をして、こう言ったんだ。
「ひとつだけ覚悟を決めておいてほしいんだ。外の世界の水が、お前たちに合うかどうかは分からない。水が合わなくて、そのまま死んでしまうことだってあり得るんだ」

 ぼくは何のことだかさっぱりわからなくて、何を聞き返せばいいのかもわからなかった。水が合わない? それで死んでしまうかもしれないって? そんなことあるのだろうか?

「昼に、この世界には川と海があるって話をしただろ。海は川よりもはるかに大きいけど、それだけじゃない。水がまったく違うらしいんだ。俺たちみたいに川で生きているやつらは、海では生きていけない場合もあるんだってよ。まぁ、行ったことがないから分からないけどさ」
「でも、ぼくらは海へ行くわけじゃないんでしょう? 川だったら、君は今までどおり生きて行けるし、君がこの部屋でなんともないなら、ぼくたちだって川に行っても何ともないはずじゃないか」

 声が大きくならないように注意しながら、ぼくは彼にたずねた。少しずつ不安が大きくなるのを認めたくなかった。
「理屈ではそうだな。でも俺が大丈夫だから、お前らも平気だとは限らないんだよ。俺は生まれたときから川で育ったから、多少汚い環境でも生きていける。今までに比べたら、ここはずいぶん暮らしやすいくらいだ。じゃあ、お前らはどうだろう」
「ぼくらは……」

 言葉が詰まって、そこから先を言えなかった。ぼくらはどこで生まれたんだろう? どうやってここに来たんだろう? 一番肝心なところが、ぼくらの記憶から抜け落ちてしまっている。

 そんなぼくの迷いに気づいたからか、彼は慎重に言葉を選んでいるようだった。少しの沈黙のあとで、彼は気を悪くしないでほしい、と言った。
「前に言ったよな。お前たちは、つくられた存在だって。自然のなかで生まれた俺とちがって、お前たちは人間の手で、人間の環境で暮らすために作られたんだ」
「人間のために、ぼくらは生きているっていうこと?」
「そうは言わないよ。何のために生きるかなんて、自分で決めればいいことだ。ただ、自然の厳しさの中で生きていた俺と、人間の環境で作られて、人間の環境で育ったお前たちとでは、生きられる条件が圧倒的に違うんだよ」
「でも、やってみなければ分からないじゃないか」
 ぼくがそう言うと、彼は悲しそうに首を横にふった。

「前に、人間がお前らの仲間を、川に放したことがある。赤い体なんて川では珍しいから、ずいぶん目立ったよ。やつら、はじめて自然ってものを目の当たりにして、嬉しかったんだろうな。夢中で泳ぎ回ってたよ」

 そこで彼はため息をついて、ぼくのまっ赤な体をじっと見つめた。
「でも、時間の問題だった。結局あいつらは、新しい環境に適応できなかった。水が汚かったんだろうな。少しずつ仲間が欠けていった。水の問題だけじゃない、自然の中には敵がたくさんいる。空からは、鳥っていうでっかい翼を持ったやつらが、常に目を光らせてるんだ。お前らの体は目立ちすぎるから、格好の標的なんだよ」

 このときのぼくの気持ちを、どう言い表したらいいだろう。絶望や悲しさや無力感が渦巻いていたけど、一番大きいのはむなしさだった。ぼくは自分のことを知らなさすぎる。彼が言うことをすべて信用するべきではないのかもしれないけど、少なくとも彼は、ぼくの仲間たちのことを知っていた。仲間たちがどんな運命をたどったのかもしっていた。やってみなくちゃ分からないだなんて、生意気なことをいってしまった自分が恥ずかしかった。

 結果は最初から見えていたのに。だから彼は、前向きなことを何ひとつ口にしなかったのだろう。
「あきらめろとは言わないよ。何か可能性があるかもしれない。まぁ、あせらないでじっくり行こうぜ」

 彼は大きくあくびをして、もう寝ようと言った。眠れるわけがないけど、ぼくは一人で考えていたかったから、うなずいて彼に背を向けた。

 眠れるわけがないんだよ。あんな話を聞いて、平気でいられるわけがない。悔しくて涙が止まらなかった。ぼくの涙は次から次へとこぼれ出て、水に溶けて消えていった。天上の小さな光が、敷き詰められたガラス玉に静かに反射していた。覗き込むと、ぼくの顔が小さくうつった。丸いガラスにうつり込んだ自分の姿は、なんだか息苦しく感じられた。