ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン(終. 2人は空気の底に)

 あれからどのくらいの時間がたっただろう。ぼくはまた、いろんなことを忘れかけていた。相変わらず彼女はほとんど口をきいてくれないから、記憶を確かめ合うこともできない。ぼんやりとごはんのことを考えて、無意識に排泄をして、やがて眠りに落ちる日々が続いた。

 だんだん体を動かすのが億劫になっていた。食欲は相変わらずだけど、なるべくじっとしていたい。起きているんだか眠っているんだか自分でも判然としなかった。そもそも目にうつるのは相変わらず、ガラスの歪んだ世界だったから、起きていても眠っていても大差はない。代わり映えのない生活で、頭のネジがゆるんでしまったのかもしれない。

 新しい仲間が来ることもなかった。ガラスの部屋にはぼくと彼女だけ、ほかには何もなかった。1日のほとんどは沈黙だったけど、それを気詰まりに思わないくらいに、ぼくたちは自分の殻にこもるようになっていた。

 何のためにぼくは生きているんだろう、そんなことを思いもした。あのとき光を抱いて落下して行った彼は、きっと死に向かっていたのだろう。生きるということ、死ぬということについては、さんざん彼から聞かされていた。自然のなかで生きるということはとても困難で、つねに死が間近にある。だからこそ生きる意味があるのだとも言っていた。

 それなら今のぼくらはどうなんだろう。きっとぼくの目は濁っている。彼はこの部屋の水は澄んでいてきれいだと言っていたけど、とてもそうは思えないんだ。この部屋はよどんでいる。ぼくたちの緩慢さのせいで、いっそう水は重くなる。底に沈んだガラスの玉は、ぼくらの涙を吸い込んで鈍く光っている。

 彼が言っていたように、もうじき冬がやってくるんだろう。冬になれば、川の表面は凍ってしまうと言っていた。この部屋も同じなんだろうか。氷のフタで覆われて、そのときぼくらは本当に、硬く透明な壁に囲まれてしまうんだ。息苦しくて、逃げ場もない。

 あれこれぼくが思いを巡らせている横で、彼女はガラスの向こうを見つめていた。彼がいなくなってから、そうする時間が長くなったように思う。いや、彼女はここにきたときからずっと、外の世界に思いを寄せていたんだ。逃げ出す手段がないと分かっていても、彼女はあきらめられなかったのだろう。不甲斐ないぼくに愛想をつかしてしまったみたいだけど、できることなら彼女の力になりたいと思う。それくらいしか、ぼくがここでできることはないだろうから。

 ある日、またあの怪物がガラスの向こう側で立ち止まった。ごはんの時間ではないから、またこの部屋を掃除しようというのだろう。

 思った通り、怪物は部屋に手を突っ込んで、ぼくらを追い回した。標的はぼくだった。危害を加えられることはないと分かっていても、あの大きな手で捕らえられるのは気持ちのいいものではない。やつは力の加減を知らないから、怪我をすることはなくても、全身がひどく痛むんだ。

 だからぼくは、怪物があきらめていなくなってくれることを祈って、部屋の中を逃げ回った。狭い部屋だから時間の問題だろうけど、何もしないよりはましだ。それに、彼女の前でやつに従順なところなど見せたくなかった。

 怪物も最初は戸惑っていたみたいだけど、すぐにぼくの動きになれたのか、先回りして捕まえようとするようになった。部屋の水がぐるぐると動いて、波立っていた。

 ぼくにとって誤算だったのは、思ったよりも早く疲れがやってきたことだった。もっと動き回れるはずなのに、体がついてこない。ずっとこの狭い部屋で暮らしていたつけがまわってきたのか、ぼくの体力は見るからに落ちていた。

 何度もぼくのからだに怪物の手が触れた。底に敷き詰められたガラス玉がゴロゴロと音を立てて転がって、水がみるみるうちに濁っていった。

 もうだめだ、逃げ切れない。そう思ってあきらめたのと同時に、怪物の手が上に上がっていった。でも、ぼくの体はそのまま部屋の中に留まっている。わけがわからず上を見上げると、怪物の手の中には、彼女の姿があった。

 彼女がぼくの身代わりになったのだった。あるいは、逃げ回る意味がないから先に捕まろうとしたのかもしれない。彼女は暴れるそぶりもなく、怪物の大きな手の中に収まっていた。なんだか自分の行為がひどく恥ずかしく感じられた。そのいっぽうで彼女のあきらめが、ぼくは悲しかった。

 怪物の指の隙間から、彼女の顔が見えた。こんなふうに目を合わせるのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。彼女は相変わらず悲しそうな目をしていた。けれどその悲しさはいつもと少し違うように感じた。

 何かにすがるような目だ。決してぼくに対するものではなく、彼女はもっと別の何かに、すがろうとしているのだと思った。どうしてそんな風に思ったのかは分からないけど、本能的に、彼女の気持ちがひしひしと伝わってきた。

 彼女はぼくを見て、口をぱくぱくと動かした。声にはならなかったけど、彼女が伝えたかったことは分かった。彼女が何をしようとしているのかも、すべて伝わってきた。

 怪物の手がガラスの部屋の上から横に移動したとき、彼女はそれまで眠らせていたすべての力を全身にみなぎらせて、激しく暴れ出した。彼女の体から、小さな光の玉がいくつもいくつも弾けてこぼれていった。きっとそれは、命のカケラだったのだろう。

 彼女の目は、死ぬことを覚悟した目だった。それはただのあきらめかもしれないけど、このガラスの部屋においてはこれ以上ないほどの、強い意志をたたえていた。彼女は命をかけて、外の世界に身を投げ出そうとしていたのだった。

 体中をくねらせ、ばたつかせ、彼女は何とか怪物の指の檻から抜け出そうとした。何度もぼくと目があいそうになったけど、彼女はすでにぼくのことなど見てはいなかった。このガラスの部屋のことも、きっと彼女の頭にはなかった。ただただ新しい世界を、ぼくらがまだ見ぬ世界のことだけを彼女は思っていた。

 悲しみと勇気が、同時にぼくのなかにもわき起こっていた。なんとか彼女を助けたい。その一心で、ぼくは水面に向かって加速した。そして水上に顔が出た瞬間に、ありとあらゆる力をバネに変えて、高く跳びあがった。

 自力でつかんだ外の空気は、あるのかないのか分からないくらい軽くて冷たかった。周囲の様子を探ることもせず、ぼくは一心に、彼女のいるほうに目を向けた。

 彼女もまた、怪物の指をこじ開けて今まさに空中に踊りだそうとしていた。怪物がぼくの動きに気を取られて、力をゆるめたのかもしれない。だとするなら、ようやくぼくは彼女の役に立てたということになる。

 気づけばぼくと彼女は、ほぼ同じ高さにいた。体の重みを感じることもなく、終わりのない閉塞感からも解放されて、ぼくらは互いに見つめ合いながら、たくさんの言葉を交わし合った。


 ようやく通じ合えた。


 ようやく分かり合えた。


 ぼくらはようやく同じ方向を向いて、同じ道を進もうとしていた。それは刹那の輝きにすぎないかもしれないけれど、たとえ瞬間であったとしても、これまでの起伏のない生活に比べればはるかに幸せだった。無理矢理引き延ばされたような緩慢な時間から、ぼくらはようやく解放された。

 外の世界を見ることができなくても、ぼくらはこうして外の空気に触れることができた。それでじゅうぶんじゃないか。自分たちの意志で道を選んだのだから、ぼくらはどんなことだって思い描くことができる。

 ぼくらはこの一瞬で、四季の巡りに身を任せるんだ。川面が凍る厳しい冬を、花が咲いては散って行く美しい春を、日差しがさんさんと降り注ぐ陽気な夏を、色あせた風景のなかで虫の声が響く切ない秋を。

 そこでは、ぶっきらぼうだけど面倒見がよくやさしかった彼が元気に泳いでいるはずだ。彼の仲間たちも、見たこともないたくさんの生き物も、ぼくらを待っているはずだ。

 彼女もきっと笑顔を取り戻して、優雅に小川をかけるだろう。ぼくはその後を追いかけて、どこまでもどこまでも、終わることのない水の流れに身を任せるんだ。やがて川幅は広がって、想像もできないくらい大きな海にたどり着く。ぼくらはそこでも生きて行けるはずだ。ガラスの世界とは比べ物にならないくらい広大な海で、ぼくらは追いかけっこをして、探検をして、疲れたら身を寄せ合って休むんだ。

 そのときは何を言えばいいだろう。今まで言いたくても言えなかった、たくさんのこと。でもそんなことはもうどうでもいいんだ。彼女のおかげで、ぼくは自由になれた。彼女の勇気が、彼女の決意が、ぼくを動かしてくれた。

 だからやっぱり、ぼくは彼女にありがとうって言いたい。そして彼女をずっと守ってやりたい。

 彼女はすぐそばにいる。ぼくと一緒に、ガラスの世界の行き場のない浮遊感から解放されて落ちて行く。ほんとうはそばに寄って手をつなぎたいけど、体の自由が利かないから、ぼくらは目と目で語りあって、心を通わせることしかできない。

 彼女は笑っている。笑いながら、涙を流している。あと少しだ。あと少しできっと、ぼくらは本当に自由になれる。