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ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

見張り塔の上から

 その塔からは、はるか地平の先までも見通すことができた。高い建物など他に何ひとつないこの村で、塔の影は長々と横たわり、太陽の動きとともに円を描くように大地をすべっていった。

 アムギがこの見張り塔のうえで暮らすようになってから、どれくらいの年月が流れただろうか。彼は毎日、この村に敵が攻め込んでこないか見張り続けていた。塔の上には鐘が据え付けてあり、外敵を発見したらいちはやく鐘を叩いて下の村人たちに知らせ、迎え撃つ準備をさせることになっていた。そのために、彼は誰かと交代することもなく、昼夜の別なく塔の上に座り続けていた。

 一日中遠方に注意を払っているわけではない。毎日睡眠はとっていたし、空想の世界で遊ぶこともあった。長い監視生活の末に、アムギは物思いに耽りながらも風景の変化を視界のすみにとらえる術を手にしていた。眠りながらも大気の振動を感じ、外界の変化を察知する術を身につけていた。

 この見張り塔は、アムギがひとりで立てたものだった。村人たちは、彼を狂人扱いした。見張り塔など必要ないのだと、誰もが異をとなえた。そもそもアムギが考えているような高さの建物など誰も見たことさえなく、どうやってつくるのか想像もつかなかったのだ。

 道具はどうするのか、材料はどうするのか。村のまわりには平坦な草地が広がっており、木材や岩石を集めるだけでも気の遠くなるような月日を要するだろう。

 それでもアムギはかたくなだった。手を貸すものが誰もいないなら、自分ひとりで建ててみせよう。そのかわり、見張り塔の上には自分以外の何者も、立ち入ってはならない。この村を外敵から守るのは自分でなくてはならない。アムギは強く主張し、やがて建設に取りかかった。

 その作業がどれだけ大変だったか、どれだけの時間を必要としたか、アムギはもう覚えていない。建設中も、建設後も、彼の頭にあるのは失った家族の思い出だけだった。

 

 村が外敵の侵入を許したのは、アムギが30歳を過ぎたころだった。彼には妻と2人の子どもがおり、老いた両親もともに暮らしていた。

 それまでは、争いごとなどとはまったく縁のない平和な村だった。暴力を振るうものもなく、理不尽を押し付けるものもなく、皆おだやかで誠実だった。命というものを慈しみ、年長者を敬い、家族を大切にするものばかりだった。

 それが、たった数時間で踏みにじられた。

 太陽が沈みかけたころだった。遠くから、天にのぼるような土煙があがっていた。徐々にそれは地響きを伴い、村に近づいてきた。

 気づいたときには、既に遅かった。自分たちの土地を持たない凶暴な騎馬民族たちは、あっという間にあらわれて、あっという間に去っていった。後に残ったのはおびただしい屍と、炎に包まれた家々だった。

 女と子どもは、皆つれていかれた。生き残ったのはアムギを含めてごくわずかだった。アムギの妻は馬に乗せられるのを拒み、子どもたちを守ろうとした。力なき抵抗はただただ無力で、彼女は子どもを守ることもできず、命を失うこととなった。アムギの両親はどちらも胸から血を流し、倒れていた。

 何もできなかった。戦うことを知らぬアムギたちは、ただ震え上がって暴虐の限りを見るだけだった。勇を鼓して立ち上がったものたちは、結局何もできずに命を失うだけだった。

 まるで一陣の風が駆け抜けたようだった。アムギたちは声もなく、涙さえも出なかった。聞こえてくるのは、炎が村を焼く音だけだった。

 後悔は日ごとに募っていった。生き残ってしまったことを恥じて、みずから命を絶つものもいた。村を捨てて旅立つものもいた。数えきれないほどの遺体を埋葬したあとで、残されたものは悲しみだけだった。

 アムギはこのときの恐怖で、声を失っていた。遠くまで響く自慢の歌声を聞かせる相手もいなく、彼は沈黙の世界の住人となった。

 もっと早くに気づいていれば、外敵に立ち向かうことができたかもしれない。アムギはずっとそう考えていた。家族を逃がすこともできたかもしれない。立ち向かう勇気を振り絞ることもできたかもしれない。何をどうしたって失われたものはかえってこないが、何かをしなければ、心が引き裂かれてしまいそうだった。

 そうして、アムギはたった一人で見張り塔を建てることを決意した。誰もがアムギをあざ笑ったが、もう彼の目には、目的以外はうつらなかった。村を守ろうというのではなく、家族を奪っていった外敵に復讐しようというのでもなく、見張り塔を建てることで、自分が救われるような気がしたのだった。

 神の視座を手にしたとき、季節は秋だった。かわいた風は地上よりも激しく、見張り塔を頼りなく揺らした。見張り塔の上は狭く、寒かった。アムギは膝を抱えて座り込んで、節々の痛みをこらえながら地平の向こうに思いをはせた。

 

 そこからは代わり映えのない毎日だった。昼がきて、夜がきて、朝がきた。アムギは目を覚ますとまず四方に変化がないかを確認し、何事もないようであれば、心のなかで亡き妻と対話した。

「キグン、また朝がきた。ツルムとサブニは元気にしているか? もっとこの塔を高くすれば、お前たちの姿を見ることができたかもしれないな。この場所よりはるか上に広がる雲のもっと上に、お前たちはいるんだろうな」

 アムギが声を失ったのは、こうして心のなかで家族に語りかけるようになったせいかもしれない。彼のなかで、妻と子どもたちは生き続けていた。そして彼は、遠くを見つめながらも過去に生きるようになった。

 やがて冬がきた。寒風は容赦なく吹き付けて、見張り塔をきしませた。雪は音もなく降り積もり、アムギの体をこわばらせた。しかしアムギはかたくなに、その場を離れなかった。春がきて、夏がきて、季節が巡っていっても、アムギは変わることなくおのれの持ち場を守り続けた。

 どこからさまよい込んできたものか、見張り塔の上にはやがて小鳥が巣をつくり、ひな鳥が声をあげるようになった。親鳥の糞に混じっていた種子が芽をだして、小さな花を咲かせるようになった。アムギはかつて妻のためにつくってやった花飾りを思い出し、ここの草花がもっと増えたら、妻や子どものために何かをつくろうと考えた。

 村人が見張り塔を登ってやってくることは一度もなかった。アムギは完全にひとりだった。もう歩き回る必要もなかったし、誰かに気をつかうこともなかった。アムギは巌のように、動くことも喋ることもしなかった。

 雷鳴が轟く日には、アムギは激しい雨に打たれながら家族のことを思った。

「キグン、哀しいのか? 怒っているのか? 俺も早くお前たちのところに行きたいと願っているが、かといってこの村を捨てるわけにもいかないのだ。どうか分かってほしい」

 そうしてアムギは不自由な体を懸命に折り畳み、額を床に押し付けて天に祈った。濡れそぼった体は熱を失い、間断なく震えていた。雷は見張り塔を打つことなく、遠ざかっていった。アムギは天に感謝して、妻の慈愛をよろこんだ。

 親鳥からえさを与えられるばかりだったひな鳥たちは、少しずつ成長し、巣立ちのときを迎えた。アムギが見守るなかで、一羽また一羽と、はじめての飛翔に挑んでいった。彼らは翼を広げ、風を切り、天高く駆け上がっていった。どうか自分の思いを妻たちに届けてほしいと、アムギは願った。

 一羽だけ、いつまでたっても巣立ちができないひな鳥がいた。生まれつき障害を持っていたのか、翼を広げることさえできない様子だった。

 親鳥や兄弟鳥たちは、この不自由な一羽のために、餌を運んできた。仲睦まじい家族だった。もはやアムギにはこの鳥たちを食べようという気持ちなどなく、彼らの営みに心慰められる日々が続いた。

 

 夏が終わりを迎えようとしていた。相変わらず四囲の景色に変わりはなかったが、見張り塔の上の小さな世界には、ひとつの変化が生まれていた。

 あれほど仲のよかった鳥たちが、争いをはじめたのだ。争いというよりは、一方的な暴力だった。痛めつけられていたのは、あの不自由な、飛べない鳥だった。

 アムギは彼を守ることをせずに、じっとこの虐待を見守っていた。なぜあんなに仲の良かった家族が、こんなことになってしまったのか。なぜこの飛べない鳥は、暴力にさらされながら、されるがままになっているのか。アムギの手のひらに乗るような小さな体にもかかわらず、彼らは何らかの意志と理不尽を抱えている。それがアムギには不思議だった。

 暴力も、そう長くは続かなかった。体の大きな親鳥が、不自由な一羽の首元をくわえて、外に放り投げたのだ。小さな体は翼を広げることもできず、重力のとりこになった。風に乗ることもなく、日差しの熱を羽にたくわえることもなく、一直線に落ちていった。

 するとこの鳥の家族は、一斉に飛び立っていった。落ちていく仲間を見届けることもせず、太陽に向かって羽ばたいていった。後にはからっぽの巣だけが残った。アムギはまた、孤独をかかえて過ごすようになった。

 一本だけ残された親鳥の羽を、アムギは髪にさした。かつて妻が、鳥の羽で装飾具をつくっていたことを思い出したのだった。

「キグンよ、俺にも翼があれば、お前たちのところへ飛んでいけるのだが……。俺にも翼があれば、ツルムとサブニを羽毛で抱きしめて、これからやって来るであろう寒さから守ってやれるのだが……。俺にはまだ、何もできないのだな」

 沈む夏の陽をじっと見つめながら、アムギは赤く染まった空の向こうに家族の顔を思い描いた。

 秋は寂しい季節だった。鳥たちが去り、夏の暑さが遠ざかってしまうと、何の変化もない日々が続いた。地上では木々が色づき、収穫に皆心を躍らせていただろう。しかしアムギが暮らすこの場所は、そのような変化とはまったく縁がなかった。太陽がのぼり、世界を真っ赤に染めて沈んでいく。そのあとには月がのぼり、深い夜空に星々を散らす。秋はそれだけだった。それだけが延々と続いていった。

 そうしてまた冬がやってきて、季節はくるくると巡っていった。冬に枯れてしまった草花も、春になればまた芽を出して、小さく可憐な花を咲かせた。暖かくなれば渡り鳥がやってきて、歌いながら巣をつくった。そんな巡りのなかで、アムギは変わらず家族のことを思いながら、地平の果てを見つめていた。

 

 どれだけの歳月が流れただろうか。周囲には相変わらず何もなく、地平線まで延々と草原が広がり、空は果てもなく青かった。ある日の午後、ついにアムギは異変を感じ取った。はるか彼方から、何かが近づいてくる。土煙は竜巻のように天に向かって駆け上がり、そのうねりの真下を、大地を轟かせながら駆ける騎馬の一群が目に入った。

 ついに来るべきときが来たかと、アムギは生唾を飲み込んだ。かつてこの村で行われた略奪を思い出し、アムギはかわいそうな家族のことを思った。

 鐘を叩く棒を手に取ると、アムギはあらためて亡き家族に思いを馳せた。

「キグンよ、ついにこの日が来た。お前たちを失ってから、俺はずっと、この日が来るのを待っていたのかもしれない。この鐘をたたけば、村の者たちがすぐに迎え撃つ準備を始めるだろう。決してあのときのようにはさせるまい。二度と同じ過ちはおかさないから、どうか俺たちの戦いを見守っていてくれ」

 アムギは目を閉じて、妻に語りかけた。あの日から時間が止まってしまった妻の面影は、若く美しいままだった。両脇には子どもたちが恥ずかしそうに立っていた。父親と面と向かって接するのに慣れていないのだろう。教えてやりたいことはたくさんあったのに、不憫なことをしてしまった。

 今は過去を振り返るときではない。アムギはそう決心し、長い間出番を待ち続けていた鉄製の鐘をたたいた。最初は探るように小さな音だったが、その音は徐々に大きくなり、鐘をたたく腕の振りも激しくなっていった。

 鐘の音はあたり一帯に響いた。鼓膜をやられてしまったものか、アムギにはもう、何も聞こえなかった。近づいてくる騎馬民族の足音も、地響きも、耳で感じることはできなくなっていた。

 しかしもう、これでアムギは役目を果たしたのだ。あとは村の人間たちがどうにかしてくれるはずだ。アムギは鐘から目を離し、押し寄せる騎馬民族に視線を転じた。

 なんという勢いだろう。大地は彼らのために揺れ、空気は彼らのために熱を増していくように思えた。日がかげり、太陽が姿を消しても、土煙は陽炎のように燃え上がった。

 アムギはこのとき、死を覚悟していた。塔の上にいる自分は、格好の的になるだろう。矢の雨が降り注ぐかもしれない。炎に巻かれて塔が倒されるかもしれない。しかしそれでもいいとアムギは思っていた。自分にできることはすべて終えたのだ。このまま家族が待っているところへ行くのも悪くはない。

「キグンよ、もう少しだ。もう少しで、俺はお前のところに行けるだろう。ツルムとサブニにもう一度会えるのだ。こんなにうれしいことはない」

 アムギは大きく息を吸い込んで、もう一度力強く鐘を叩いた。

 甲高い金属音は、草原を駆けて騎馬民族のもとまで届いただろう。空気を切り裂いて、狂ったように目を見開いて駆ける馬たちに響いただろう。その背にまたがり下卑た笑いを浮かべる敵どもの耳を貫いただろう。

 これでアムギの居場所も、明らかになってしまった。逃げることはかなわない。村が蹂躙されれば、アムギも生きてはいられないだろう。それでいいのだと、アムギは自身を納得させた。ここで死ぬことこそが、ずっと一人で生きてきたアムギの希望となっていた。

 少しずつ、騎馬民族の姿が鮮明になってきた。村人たちはもう準備を終えたのだろうか。見張り塔の上で暮らすようになってから、彼らとはまったく関わりをもたない。お互いに姿を見たこともない。武器を手に立ち上がった勇敢な男たちのことを想像し、アムギはすぐに始まるであろう戦いのことを思った。

 天にのぼる煙はどんどん濃くなり、襞のようなうねりを肉眼ではっきりととらえられるまでに近づいていた。鐘をついたときに耳を悪くしていなければ、馬のいななきや地響きが聞こえてきただろう。まばたきをするたびに、敵は一足飛びに近づいてきた。見張り塔もその熱気にあおられてかすかに揺れているようだった。

 村人たちの動きはまだ感じられない。アムギはそれを不審に思ったが、確かめるすべはなかった。今更見張り塔を降りることなどできないのだ。狭い場所で長いあいだ不自由をかこっていたせいで、アムギの体は衰弱しきっていた。立ち上がることさえおぼつかず、ましてや声を張り上げて合図を送ることなどできるはずもなかった。

 直前まで敵を引きつけるつもりなのだろうか。傾きかけた太陽が見張り塔の影を伸ばし、その先端を騎馬民族の先頭が踏みつけても、村からは誰も出てはこなかった。荒ぶる馬たちがどれだけ村に近づいても、武器を手に立ちはだかるものはなかった。

 結局みな、恐怖に負けて動けずにいるのだろうか。だとすれば、自分が今まで見張ってきたことは何の意味もないではないか。

 かといって塔を降りることもできず、声をあげて叱咤することもできず、アムギは煩悶しながら来るべきときを待つことしかできなかった。

 この命がここで果てるにしても、せめて何人かは道連れにしてやろうと、アムギは固まった関節を無理に伸ばして膝建ちになり、柱にくくりつけられていた鐘を取り外した。風雨にさらされてずいぶん薄汚れてしまったが、重みだけは昔と変わらなかった。大事に鐘を抱えながら、アムギはもう一度、鐘を叩いて鳴らした。今度は鈍い音が反響するだけだった。

 アムギはあきらめて目を閉じた。きっとこれまでの鐘の音も、下までは届かなかったのだろう。何のために今まで懸命に見張りを続けていたのか、それを思うと口惜しくてならなかった。

 そうするうちに、騎馬民族はもう目と鼻の先まで近づいていた。彼らは縦に列を成して、大地を裂かんばかりに土煙を巻き上げて疾走していた。とても迷いなど感じられず、彼らにとって殺戮と略奪は何ら心の痛むことではないのだと思い知らされた。

 彼らは速度を緩めることなく、そのまま村に飛び込んでいった。アムギは目を閉じて、抱えていた鐘を真下に放り投げた。シュルシュルと音を立てながら、鐘は馬上の敵に向かって落下していった。

 しかし鐘は、誰にかすることもなく地面にぶつかって、跳ね転がっていった。これで上に人がいることは気づかれてしまったはずだ。一斉に矢が打ち込まれ、自分は命を失うのだろう。それでもいいと思い、アムギは天を見上げた。

 

 村人たちは勇敢に戦っているだろうか。塔のまわりは血に染まっているだろうか。アムギは空を見つめながら、はるか真下で繰り広げられているであろう戦いを思った。結局村人たちの力になれなかったことを呪い、しかしもうすぐ潔く死ねるのだという思いが快楽のように胸を満たし、下の世界とアムギとを切り離していた。

 見張り塔の反対側にいざり寄り、アムギは再び眼下を見た。そこには、何の混沌もなかった。騎馬民族たちは来たときと同じ速度で、村を駆け抜けていった。誰一人立ち止まることなく、まるで何事もなかったかのように悪意が通り過ぎていった。

 抵抗するものも、命を失うものも見当たらなかった。村人の姿はどこにもなかった。アムギは鐘を叩くための棒を拾い上げ、真下の敵に投げつけた。

 確かに棒は、敵の頭にぶつかった。しかしそれは影にぶつかったかのように、はじかれることもなく敵の体に吸い込まれていき、地面に転がった。アムギは手当り次第に身の回りのものを放り投げたが、何度やっても同じことの繰り返しだった。アムギの投げたものは、敵の体を通り過ぎていくだけだった。

 アムギは自分の手を見た。節くれ立った長い指は半透明で、景色が透けて見えた。指だけではなく、腕もそうだった。そして手と手を合わせようとしても、すれ違うばかりだった。右手と左手の指が触れ合うことはなく、何度やっても感触をつかむことはできなかった。

 疑念が膨らむたびに、アムギの体は透き通っていった。涙は流砂となり、足下に小さな山をつくった。いつの間にか沈みかかった太陽は、アムギの胸を透かして光を地面に届けた。少しずつ気が遠くなっていくなかで、アムギはもう一度眼下を見た。

 騎馬民族は、もう残りわずかだった。そのすべてが、立ち止まることなく村を通り抜けていった。

 よく見れば、彼らは兵士だけでなく、馬の後ろに女子どもを連れていた。最後尾の男も同じで、家族を連れて移動しているようだった。

 最後の男は塔の下を通過して少し離れると、振り返って上を見た。アムギは彼の目を見た。気づいているのか気づいていないのかは分からないが、彼はじっと、塔の上を見やっていた。

 やがて男は背袋から取り出した弓矢を構え、弦を引き絞った。
 一瞬にして、矢は男の手から放たれた。するどいうなりをあげて、矢は塔に吸い込まれていった。上まで届くことはなく、塔の中ほどに突き刺さった。矢は燃え上がり、灰となって消えた。

 アムギはその一部始終を見守ると、胸をおさえて後ずさった。透明な胸から、赤い血が流れ出していた。血はあふれた先から砂にかわり、とめどなくこぼれ落ちていった。

 蜃気楼のように、アムギはそこにたたずんでいた。自分の体が消えていくのが分かった。意識ははっきりしているのに、体の感覚が失われていく。胸にあいた穴を押さえ、アムギはひざまずいた。

 誰もいないのだ。

 いや、誰もいなかったのだ。

 ようやくアムギは、そのことを思い知った。誰もいない村を、アムギは守り続けていたのだ。やがて現実と空想の境はなくなり、アムギは思い出に生きるようになった。気の遠くなるような歳月を、アムギは一人で無意味に過ごしていた。

 いつから俺の体はこんな風になっていたのだろう。透明で、実体がない。それは死んでいるのと同じことだった。

 矢を放った男は、馬からおりて塔を見上げていた。

 男ではなかった。いつの間にか髪が伸びており、衣服も女性のそれへと変わっていた。馬の姿も消え去り、両脇に幼子を連れていた。

「キグン……」

 アムギは中空に手を伸ばしてうめいた。砂の涙はサラサラと流れ落ち、糸のように大地に吸い込まれていった。アムギがその場にくずおれると、見張り塔は矢を受けた部分から崩れだし、灰となって宙にあふれた。まるで霧のようにあたりを包み込み、落日の光を受けて黄金色に染まった。

 足下が崩れ、アムギは大地へと落ちていった。すでにアムギの実体はなかったが、黄金の霧をかき分けて、愛しい者たちのもとへと吸い込まれていった。

 もはや見張り塔は跡形もなく、あとには果てしない草原が広がるだけだった。夕闇のなかで白い花々が咲き群れて、金の風にそよいでいた。