ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

水遊び

 うだるような、暑い夏の午後だった。直子がウチワで涼をとっていると、玄関のベルが鳴った。ずいぶんせっかちな鳴らし方に感じられた。少なくとも近所の住人たちは、このような鳴らし方をしない。

 宅配便かと思い、重い腰をあげて玄関をあけると、そこに立っていたのは鼠色の塊だった。かすかに震えながら異臭を放つその塊の、ちょうど直子の腰くらいの高さに、涙にぬれる瞳がついていた。

「良一ったら……またやったの」
 思わず直子が咎めると、良一は上目遣いで母親の顔を覗き込んだあと、すぐに視線を足元に転じてしまった。涙を見られたくないのだ。うつむいて涙をこらえる両肩が、結局は制しきれずわなないていた。

 鼠色の塊は、直子の一人息子の良一だった。学校からの帰り道、用水路に落ちたのだ。用水路といっても、汚泥がぬかるむどぶ川のようなものだ。横幅が1メートルほどあり、子どもたちの度胸試しの格好の舞台となっていた。小学校低学年の子どもが、立ち幅跳びで飛び越えられるかどうかという絶妙な幅なのだ。普通に飛べばまず落ちることなどないが、ちょっとでも怖じ気づいてしまうとひどい目にあう。春先頃から、むき出しのままでは危険だから蓋をするようにと町内会で声があがっていた。

 度胸試しをしようと友達に誘われて断りきれなかったのだろうか。もしかしたらいじめられているのかもしれない。しかし良一は、一人で歩いていてもどぶにはまるような子どもだ。よそ見をしながら歩いていて、うっかり落っこちてしまったのかもしれない。見たところ、どこも怪我はしていないらしい。特に痛いところもなさそうだった。

 「水かけてあげるから、そこで服を脱いじゃいなさい」
 良一は心細そうに「うん」と答えると、小さな声で「ごめんなさい」と付け加えた。

 服を脱いだ良一を裸で庭に立たせると、直子はホースで、水をかけてやった。夏の暑さが、水煙に溶けていく。良一の体も、みるみるうちに汚れが落ちていく。

 さっきまでの気怠さが嘘のようだった。キレイ好きの直子にとって、平気で泥だらけになって帰ってくる息子に怒りを覚えることもあるが、それをキレイに洗い流してやることにたとえようのない愛おしさを感じるのだった。

 背中を洗い終えてこちらを向かせると、良一はまた上目遣いに直子を見て、目を伏せた。それを何度も繰り返した。

 ああ、この子も楽しくなってしまったのだと、直子は思った。けれど悪いことをしたから、笑うべきではないと考えているのだろう。いじらしさとわずらわしさがないまぜになって、直子はホースの先端を細めて水圧を強めた。放たれた水鉄砲が、良一の胸ではじける。おさない笑い声が、夏空に吸い込まれていった。