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ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

釈迦と阿修羅

 一

 

 「罪深い」という言葉があるが、罪の深さは地獄の深さに直結する。東洋では大きく8つに分かれ、これを八大地獄、あるいは八熱地獄などと呼ぶ。

 地獄では永遠に責め苦が続くわけではないが、蚊を殺した程度の罪でさえ、許されるまでに1兆6653億1250万年もの歳月を要するという。これは八大地獄のなかでは最も楽な、等活地獄における話である。カンダタが落ちたのは八大地獄のうち5番目の階層にあたる大叫喚地獄あたりであろうから、6821兆1200億年は苦しまねばならぬ。

 考えてもみるがいい。6821兆1200億年分の罪人が、この地獄の一画に集められているのだ。仮に世界中から、大罪人が年に100人ここに落ちてきたとしたら。もはやケタは兆にとどまらぬ。日常生活ではまず使われぬ、「京」という単位にまで達するのである。

 カンダタがどのくらいの時間を地獄で過ごしてきたかなど、お釈迦様には知るよしもない。蓮池をのぞき見たら、どこかで見た顔があった。極悪人には違いないが、たしか蜘蛛を助けたことがあったはずだ。ならば蜘蛛の糸を垂らして救い出してやろう。慈悲といえば聞こえはいいが、どんな悪人にだって虫を助ける程度の心温まるエピソードはあるものだ。たまたまカンダタの運が良かったに過ぎぬ。お釈迦様の気まぐれに過ぎぬ。

 カンダタは天から垂らされた糸に気づき、脱出を試みた。心躍るような気持だったであろう。数千兆年をひとっ飛びに飛び越えて、あわよくば極楽の住人になれるかもしれないのである。

 しかし事はそう甘くない。糸を登るのに疲れたカンダタが下を見ると、数えきれぬほどの罪人が彼を追っていた。はるか下方に豆粒のように小さく見える程度だったから追い越されることはまずないが、カンダタが恐れたのは糸が切れることであった。自分ひとりを支えるのさえ頼りない、細い糸だ。このままでは切れてしまうに違いない。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ」カンダタが大声で喚いたのも無理はない。

 しかしこのとき、お釈迦様は別の心配をしていた。蜘蛛の糸は絶対に切れないのだ。金剛王宝剣でも切れなかった。カルラの炎にも溶けずに残った。そもそもこの程度で切れるくらいなら、はなから地獄に垂らしたりなどしないのだ。

莫迦者め……」

 お釈迦様がつぶやいたとき、極楽が微かに揺れた。6821兆1200億年×100人、少なく見積もっても682京1120兆人の重みが、蜘蛛の糸の一点に集中しているのである。極楽は徐々に、地獄に引き寄せられている。

カルネアデスの板」という哲学問題がある。舟が難破し、放り出された海で板切れにすがりついた船員がいた。安堵もつかの間、気づけば別の船員が同じ板につかまろうとしている。この薄っぺらい板が2人の重みに耐えられるとはとても思えない。後から来た船員を突き飛ばして、自分ひとりが助かろうとするのは果たして罪であろうか。

 刑法でいうところの緊急避難ととらえれば、罪には問われないだろう。しかしカンダタの場合、自分が助かるために突き飛ばそうとした相手は一人ではない。自分ひとりが助かるために、天文学的数字の罪人たちを足蹴にするのは許されるだろうか。

 このように、「カルネアデスの板」を「蜘蛛の糸」に置き換えて考える人は意外に多い。しかし真に罪に問われるべきはカンダタなのか。結果的に、カンダタは数多の罪人を道連れに、再び地獄に転落していった。だがよくよく考えてみれば、カンダタ自ら蜘蛛の糸を切ったわけではないのだ。罪人たちの重みに耐えかねて極楽が地獄に堕ちるのを恐れて、あるいは京兆にのぼる罪人たちが極楽を蹂躙することを恐れて、お釈迦様が手をかけたのである。

「許せ」

 お釈迦様が告げた相手はカンダタではなく、その下に連なる罪人たちでもなかった。視線の先には蜘蛛がいた。糸を切ることができぬなら、蜘蛛もろとも、糸を地獄に落すしかないのである。お釈迦様が手を払うのが先か、蜘蛛がみずから身を投げるのが先か分からなかった。お釈迦様の視線の先には、奈落の底へと吸い込まれて行く蜘蛛の姿があった。

 

 

 二

 

「つまり等活地獄っすねー」

 邏卒の牛頭馬頭にとらえられてうなだれるお釈迦様の前に、阿修羅が立っていた。

「お釈迦様ともあろうお方がねぇ。蜘蛛を助けたカンダタを助けようとして、結局蜘蛛もろとも地獄に落しちゃうなんて洒落になんないっすよ」

「じゃあ何か、極楽が消えてなくなっても仕方ないというのか」

 お釈迦様が恨めしそうに問うと、阿修羅はあわてて「いやいやいや、それ言うと話がややこしくなるんで! どっちにしても殺生しちゃったのは事実なんだから、そこから考えていきましょうよ」と言った。

 まさか阿修羅が自分の弁護人になるとは思わなかった。今ではイケメンだなんだと巷の女子にキャーキャー言われているが、こいつだって元をただせば暴力好きのクソヤンキーなのである。帝釈天に毎度喧嘩を売っては返り討ちにあっていたというのは、極楽では有名な話である。

「だいたいお前、閻魔の前で反論なんてできるの? 私の弁護なんてできるの?」

「だーいじょうぶ。逆転裁判で練習してますから。異議あり! って言えばいいんでしょ?」

 頭が痛くなってきた。腕力にものを言わせてのし上がって来たこいつに期待すべきではないのだ。そもそも、悪党で知られた阿修羅を導いたのは他の誰でもない、お釈迦様自身であった。彼の説法が、阿修羅を改心させたのである。よくよく考えてみればこいつもカンダタも大差ない。

「あの日のお釈迦様の説法、俺いまでも忘れられねーんす。俺もあっちこっちでストリート説法やってるんすけど、莫迦だからすぐヤベーだのパネーだの言っちゃうし。でも今度はまじヤベーっすから。聞いてくださいよ、俺の説法!」

 それを釈迦に説法というんだよ。喉元まで出かかったが我慢した。「相変わらずうまいっすねー」とか言われそうで癪なのだ。釈迦だけに。あぁ、自分もちょっとおかしくなってきている。

「そもそもさ、なんで弁護人がお前なの。大日如来あたりが良かったよ。あいつ物知りだし」

「大日様は羅生門が藪の中で大変だとかで出張中なんですよ」

「まだ解決してなかったのか。2つまとめるからややこしくなるんじゃないのかね」

「いや、黒澤なんとかいうやつが真相を突き止めたはずだったんですけど、河童が足をひっぱってるみたいで」

 なんだか鼻がむずむずする話である。タッタが悪さをしているのかもしれない。

「弥勒はどうした。他力救済といえば弥勒だろう」

「あいかわらず須弥山にこもってるみたいで、56億年待った甲斐があったとか喜んでるらしいっす。あいつ下克上狙ってますよきっと」

 どいつもこいつも当てにならない。

「で、実は俺もダメ元で立候補したんす。成り上がりのチャンスだと思って。そしたらあっさり、閻魔様からお前やれって言われちゃって」

 もしや、はめられたのではあるまいか。カンダタを救おうとしたのは慈悲のあらわれに他ならないが、閻魔からすれば面白くないだろう。カンダタに罪人の烙印を押したのは閻魔自身なのだ。お釈迦様の行いは、その決定を覆すようなものなのだから。閻魔の顔に泥を塗ったに等しいのである。

 いや、もっと根は深いかもしれない。以前、地獄に堕ちた公務員がクーデターを起こしたことがあった。閻魔に代わって地獄の王となったその男は湯水のように金を使い、地獄の予算をすべて使い果たすと今度は極楽への侵攻を開始した。公務員の上司の説得によって事無きを得たが、どうも話がうまく運びすぎている。クーデターの黒幕は釈迦なのではないか。閻魔がそのように考えていると、風のうわさで聞いたことがあった。

 その公務員も最近ようやく引退したと聞いている。なんでも借金がすさまじい額で、とても人間界では返済できないという。ふたたび地獄極楽を制圧しにやってくるかもしれない。

 要するに閻魔は、自分を地獄に落して極楽を乗っ取ろうとしているのだろうか。まさか公務員と手を組んで!? だとすれば、閻魔が阿修羅を弁護人に選んだのも腑に落ちる。この莫迦には弁護などできないと踏んでいるのだろう。

「俺まじがんばりますから! お釈迦様の弟子みたいなもんだし、リングでは蜘蛛の化身で通ってるし。蜘蛛の糸殺人事件の真犯人は俺が暴いてみせますよ。じっちゃんの名にかけて!

「ちょっと待って……」

 突っ込みどころが多すぎてどうにもならない。

「リングって何なの」

「あー、まだ言ってなかったでしたっけ。最近俺、プロレス始めたんすよ」

 イケメン仏像ブームが下火になってきたから、最近女子に人気のプロレスに触手を伸ばしたのだという。守護神のくせにプロレスやってる莫迦がいると聞いたことはあるが、まさか阿修羅だとは思わなかった。そういえば悪魔なんとかいう団体に属しているらしい。改心したんじゃなかったのか。

「サンシャインってやつとコンビ組んでるんですけどね。あいつったらおでこと胸に光輪のタトゥーなんか入れちゃって。信仰心半端ないっすよねー」

 入場テーマはRADの「おしゃかしゃま」らしい。NIRVANAも捨てがたかったが、グランジおやじを喜ばせても仕方がない。女子に受けるのはRADだと踏んだらしい。どうでもいい。

「いろいろ思い出してきたぞ。お前最近、周りに阿修羅男爵って呼ばせてるらしいじゃないか」

「ややややや、それお釈迦様の勘違い! ディーノじゃあるまいし!」

「ディーノは男爵じゃなくて男色だろう」

「えー、お釈迦様って案外世間知らずなんですねぇ。本家本元は男爵ディーノなんですよ」

 向かって左側の子どもっぽいほうの顔で、得意げに踏ん反りかえっている。だんだん苛ついてきた。邪鬼にでも頼んでぶっ飛ばしてもらおうか。

「だいたいお前さ、インド出身って言ってるけど本当なのかね。日本にも阿修羅って名前の、二頭身の餓鬼がいたって聞いたことあるぞ。とんでもない悪たれで、有害図書指定されたとかって」

「いやー、阿修羅なんてどこにでもある名前ですからね。平安時代とか知らないし。仏教守護神一筋だし」

 と言いつつこの男は、ヒンズー教バラモン教ゾロアスター教にまで見境なく首を突っ込んでいる。

「最近コーポレートガバナンス・コードの影響でどこの宗教も社外取締役ほしがってるんすよ。俺みたいに有能だと、あっちこっち引っ張りだこで、阿修羅は一人じゃない、四人いるなんて都市伝説もあるくらいで」

「お前のは有能じゃなくて、八方美人なだけだろう」

「違います、三方美人ですよ。はっはー」

 いい加減うんざりしてきたのを感じ取ったのか、阿修羅は突然表情を変えた(中央の顔に戻した)。いつになく真剣な面構えだ。

「真面目な話、俺、トークなら誰にも負けないつもりなんすけどね。3人分しゃべれるし、お釈迦様のためなら舌ひっこぬかれたってかまいませんよ。でも閻魔は汚い野郎ですから、何たくらんでるか分からないし。お釈迦様も慎重に振る舞ってくださいよ」

 分かってるよ、そんなこと。急に弟子らしく殊勝なことを言ってくれるものだから、ちょっと涙が出てしまう。気が小さくなっているのだろう。

 杜子春という男に対する閻魔の仕打ちは広く語りぐさになっている。黙秘を決め込む杜子春の口を開かせるために、閻魔が用意したカードは二匹の獣だった。人の顔をした二匹の馬。それは畜生道に落ちていた、杜子春の両親だったという。若いころには地蔵になりすまして、菅笠をかぶせてくれた老夫婦の後をつけて略奪に及んだという噂もある。きっと今回も、卑劣な罠を用意しているだろう。

「それともうひとつ。カンダタが証人として呼ばれてるらしいんすけど、帝釈天の野郎も裏で絡んでるっぽい」

 阿修羅は帝釈天を目の敵にしているから、鼻息荒くなるのも無理はない。しかしそれだけではなさそうだ。

 負け続けの阿修羅だが、一度だけ帝釈天を追いつめたことがあった。逃げる帝釈天と追う阿修羅。このまま距離をつめて決着をつけようと思ったところ、突如帝釈天は向きを変え、再び阿修羅に挑んできた。彼の行く手には、道をわたる何万匹もの蟻の姿があったのである。取るに足らぬ命だとしても、弱者を踏みつけにすることはできなかった。帝釈天は逃げるのをやめて、勝ち目の薄い戦いに身を投じたのである。

 阿修羅と帝釈天の争いは、1対1の私闘ではない。お互いに軍勢を率い、生き残りをかけた血で血を洗う戦いである。蟻に情けをかけたがために、帝釈天の軍勢は皆殺しにされるかもしれない。それでも彼は揺らがなかった。

 そんな帝釈天のことだから、お釈迦様の行いに腹をたてているのだろう。

「俺は莫迦だから、どっちが正しいかなんて分からないっすよ。アリンコと自分の仲間を本気で天秤にかけた帝釈天が正しいのか、極楽を守るためにカンダタや罪人たちと一緒に、蜘蛛を見捨てたお釈迦様が正しいのか……」

「自分が正しいと思わなければやりきれないがね。しかしそれを決めるのは私でもお前でも、閻魔でも帝釈天でもない。切り捨てられたカンダタや蜘蛛なのだろう」

「俺はやっぱり、帝釈天の考え方は青臭くて嫌いなんですけどね。お釈迦様のほうがさっぱりしてていいや。でも女はああいう理想論振りかざすタイプがいいんだろうなぁ。あの野郎、俺の娘をたぶらかしやがって……」

 少々おかしな雰囲気になってきたが、阿修羅なりに気をつかってくれているのだろう。

 もうすぐ閻魔の前で尋問が始まる。何が起こるか分からないが、修羅場になるのは間違いあるまい。もとはといえば自分の軽率さが招いた事態なのだから、罰されても文句は言えまい。奈落の底へ突き落とされたなら、そこでカンダタと語りあってみよう。永劫をともにすれば、きっと分かり合えるような気がする。蜘蛛にも謝罪しなければならない。決して切れぬ糸をカンダタとの間に紡ぐことが、蜘蛛に対してお釈迦様ができることのすべてであった。

 

 

 三

 

「そうだお釈迦様、裁判の入場テーマどうしましょうか。『おしゃかしゃま』は俺のだからダメっすよ。修羅場っつったらやっぱ事変ですかねー」

「いや……」

「そっかお釈迦様世代だと、修羅場っつったらラ☆バンバか。ぶち上げてきましょう! わっしょーい」

「もうやめて……」

 お釈迦様の周りには、何ともいえない香ばしい匂いが絶え間なくあふれていた。極楽ももう夜近いのである。