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ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン(終. 2人は空気の底に)

 あれからどのくらいの時間がたっただろう。ぼくはまた、いろんなことを忘れかけていた。相変わらず彼女はほとんど口をきいてくれないから、記憶を確かめ合うこともできない。ぼんやりとごはんのことを考えて、無意識に排泄をして、やがて眠りに落ちる日々が続いた。

 だんだん体を動かすのが億劫になっていた。食欲は相変わらずだけど、なるべくじっとしていたい。起きているんだか眠っているんだか自分でも判然としなかった。そもそも目にうつるのは相変わらず、ガラスの歪んだ世界だったから、起きていても眠っていても大差はない。代わり映えのない生活で、頭のネジがゆるんでしまったのかもしれない。

 新しい仲間が来ることもなかった。ガラスの部屋にはぼくと彼女だけ、ほかには何もなかった。1日のほとんどは沈黙だったけど、それを気詰まりに思わないくらいに、ぼくたちは自分の殻にこもるようになっていた。

 何のためにぼくは生きているんだろう、そんなことを思いもした。あのとき光を抱いて落下して行った彼は、きっと死に向かっていたのだろう。生きるということ、死ぬということについては、さんざん彼から聞かされていた。自然のなかで生きるということはとても困難で、つねに死が間近にある。だからこそ生きる意味があるのだとも言っていた。

 それなら今のぼくらはどうなんだろう。きっとぼくの目は濁っている。彼はこの部屋の水は澄んでいてきれいだと言っていたけど、とてもそうは思えないんだ。この部屋はよどんでいる。ぼくたちの緩慢さのせいで、いっそう水は重くなる。底に沈んだガラスの玉は、ぼくらの涙を吸い込んで鈍く光っている。

 彼が言っていたように、もうじき冬がやってくるんだろう。冬になれば、川の表面は凍ってしまうと言っていた。この部屋も同じなんだろうか。氷のフタで覆われて、そのときぼくらは本当に、硬く透明な壁に囲まれてしまうんだ。息苦しくて、逃げ場もない。

 あれこれぼくが思いを巡らせている横で、彼女はガラスの向こうを見つめていた。彼がいなくなってから、そうする時間が長くなったように思う。いや、彼女はここにきたときからずっと、外の世界に思いを寄せていたんだ。逃げ出す手段がないと分かっていても、彼女はあきらめられなかったのだろう。不甲斐ないぼくに愛想をつかしてしまったみたいだけど、できることなら彼女の力になりたいと思う。それくらいしか、ぼくがここでできることはないだろうから。

 ある日、またあの怪物がガラスの向こう側で立ち止まった。ごはんの時間ではないから、またこの部屋を掃除しようというのだろう。

 思った通り、怪物は部屋に手を突っ込んで、ぼくらを追い回した。標的はぼくだった。危害を加えられることはないと分かっていても、あの大きな手で捕らえられるのは気持ちのいいものではない。やつは力の加減を知らないから、怪我をすることはなくても、全身がひどく痛むんだ。

 だからぼくは、怪物があきらめていなくなってくれることを祈って、部屋の中を逃げ回った。狭い部屋だから時間の問題だろうけど、何もしないよりはましだ。それに、彼女の前でやつに従順なところなど見せたくなかった。

 怪物も最初は戸惑っていたみたいだけど、すぐにぼくの動きになれたのか、先回りして捕まえようとするようになった。部屋の水がぐるぐると動いて、波立っていた。

 ぼくにとって誤算だったのは、思ったよりも早く疲れがやってきたことだった。もっと動き回れるはずなのに、体がついてこない。ずっとこの狭い部屋で暮らしていたつけがまわってきたのか、ぼくの体力は見るからに落ちていた。

 何度もぼくのからだに怪物の手が触れた。底に敷き詰められたガラス玉がゴロゴロと音を立てて転がって、水がみるみるうちに濁っていった。

 もうだめだ、逃げ切れない。そう思ってあきらめたのと同時に、怪物の手が上に上がっていった。でも、ぼくの体はそのまま部屋の中に留まっている。わけがわからず上を見上げると、怪物の手の中には、彼女の姿があった。

 彼女がぼくの身代わりになったのだった。あるいは、逃げ回る意味がないから先に捕まろうとしたのかもしれない。彼女は暴れるそぶりもなく、怪物の大きな手の中に収まっていた。なんだか自分の行為がひどく恥ずかしく感じられた。そのいっぽうで彼女のあきらめが、ぼくは悲しかった。

 怪物の指の隙間から、彼女の顔が見えた。こんなふうに目を合わせるのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。彼女は相変わらず悲しそうな目をしていた。けれどその悲しさはいつもと少し違うように感じた。

 何かにすがるような目だ。決してぼくに対するものではなく、彼女はもっと別の何かに、すがろうとしているのだと思った。どうしてそんな風に思ったのかは分からないけど、本能的に、彼女の気持ちがひしひしと伝わってきた。

 彼女はぼくを見て、口をぱくぱくと動かした。声にはならなかったけど、彼女が伝えたかったことは分かった。彼女が何をしようとしているのかも、すべて伝わってきた。

 怪物の手がガラスの部屋の上から横に移動したとき、彼女はそれまで眠らせていたすべての力を全身にみなぎらせて、激しく暴れ出した。彼女の体から、小さな光の玉がいくつもいくつも弾けてこぼれていった。きっとそれは、命のカケラだったのだろう。

 彼女の目は、死ぬことを覚悟した目だった。それはただのあきらめかもしれないけど、このガラスの部屋においてはこれ以上ないほどの、強い意志をたたえていた。彼女は命をかけて、外の世界に身を投げ出そうとしていたのだった。

 体中をくねらせ、ばたつかせ、彼女は何とか怪物の指の檻から抜け出そうとした。何度もぼくと目があいそうになったけど、彼女はすでにぼくのことなど見てはいなかった。このガラスの部屋のことも、きっと彼女の頭にはなかった。ただただ新しい世界を、ぼくらがまだ見ぬ世界のことだけを彼女は思っていた。

 悲しみと勇気が、同時にぼくのなかにもわき起こっていた。なんとか彼女を助けたい。その一心で、ぼくは水面に向かって加速した。そして水上に顔が出た瞬間に、ありとあらゆる力をバネに変えて、高く跳びあがった。

 自力でつかんだ外の空気は、あるのかないのか分からないくらい軽くて冷たかった。周囲の様子を探ることもせず、ぼくは一心に、彼女のいるほうに目を向けた。

 彼女もまた、怪物の指をこじ開けて今まさに空中に踊りだそうとしていた。怪物がぼくの動きに気を取られて、力をゆるめたのかもしれない。だとするなら、ようやくぼくは彼女の役に立てたということになる。

 気づけばぼくと彼女は、ほぼ同じ高さにいた。体の重みを感じることもなく、終わりのない閉塞感からも解放されて、ぼくらは互いに見つめ合いながら、たくさんの言葉を交わし合った。


 ようやく通じ合えた。


 ようやく分かり合えた。


 ぼくらはようやく同じ方向を向いて、同じ道を進もうとしていた。それは刹那の輝きにすぎないかもしれないけれど、たとえ瞬間であったとしても、これまでの起伏のない生活に比べればはるかに幸せだった。無理矢理引き延ばされたような緩慢な時間から、ぼくらはようやく解放された。

 外の世界を見ることができなくても、ぼくらはこうして外の空気に触れることができた。それでじゅうぶんじゃないか。自分たちの意志で道を選んだのだから、ぼくらはどんなことだって思い描くことができる。

 ぼくらはこの一瞬で、四季の巡りに身を任せるんだ。川面が凍る厳しい冬を、花が咲いては散って行く美しい春を、日差しがさんさんと降り注ぐ陽気な夏を、色あせた風景のなかで虫の声が響く切ない秋を。

 そこでは、ぶっきらぼうだけど面倒見がよくやさしかった彼が元気に泳いでいるはずだ。彼の仲間たちも、見たこともないたくさんの生き物も、ぼくらを待っているはずだ。

 彼女もきっと笑顔を取り戻して、優雅に小川をかけるだろう。ぼくはその後を追いかけて、どこまでもどこまでも、終わることのない水の流れに身を任せるんだ。やがて川幅は広がって、想像もできないくらい大きな海にたどり着く。ぼくらはそこでも生きて行けるはずだ。ガラスの世界とは比べ物にならないくらい広大な海で、ぼくらは追いかけっこをして、探検をして、疲れたら身を寄せ合って休むんだ。

 そのときは何を言えばいいだろう。今まで言いたくても言えなかった、たくさんのこと。でもそんなことはもうどうでもいいんだ。彼女のおかげで、ぼくは自由になれた。彼女の勇気が、彼女の決意が、ぼくを動かしてくれた。

 だからやっぱり、ぼくは彼女にありがとうって言いたい。そして彼女をずっと守ってやりたい。

 彼女はすぐそばにいる。ぼくと一緒に、ガラスの世界の行き場のない浮遊感から解放されて落ちて行く。ほんとうはそばに寄って手をつなぎたいけど、体の自由が利かないから、ぼくらは目と目で語りあって、心を通わせることしかできない。

 彼女は笑っている。笑いながら、涙を流している。あと少しだ。あと少しできっと、ぼくらは本当に自由になれる。

カノン(3.敵)

 奇妙な共同生活がしばらく続いた。彼は何かあるとぼくらを励まそうと、一生懸命話しかけてくれた。最初はぶっきらぼうなやつだと思ったけど、気持ちのやさしいやつだったんだ。

 でも、ぼくも彼女も、彼の好意に応えてあげられなかった。彼女もきっと、ぼくと同じことを考えていたんだろう。この世界から、逃げ出すことはかなわない。死ぬまでここで暮らさなければいけない。夢がついえてしまったら、何を頼りに生きて行けばいいのか分からなかった。

「もう、秋なんだな」
 彼はある日、しみじみとした口調で言った。
「秋ってなんだい?」
 ぼくの質問がよほどおかしかったのか、彼はひとしきり笑ったあと、ごめんごめんと謝った。

「そうだよな、ずっとこの家のなかにいたんなら、季節のことを知らなくても無理はないよな。外の世界には四季っていう4つの季節があって、春、夏、秋、冬って順に繰り返していくんだ」

 彼がここに来たのが夏で、今はその次の秋という季節らしい。
「でも、どうしてそんなのが分かるの? 何かが変わるの?」
 ぼくが聞くと、彼はあれを見ろよ、といって、ガラスの向こうに落ちた赤いものをさした。
「真っ赤だろう? お前らの体みたいだ。あれは紅葉っていうんだ。夏までは緑色なんだけど、秋になると赤くなるんだよ」

 ふだんは外にある木というものについているらしいけど、どこからか迷い込んできたらしい。確かにぼくと同じような色をしていたけど、もっと寂しい雰囲気だった。

 秋の次には、冬がやってくるのだと彼は言った。冬はとても寒くて、水の表面が凍り付いてしまうのだそうだ。水面が固まって、顔を出せなくなるのだという。そしたらごはんが食べられないじゃないかと言ったら、外の世界では、餌が上から降ってきたりはしないんだと笑われた。

 冬になると、世界から色がなくなってしまう。白と黒に覆われてしまう。だから冬はつまらないのだと彼は言う。でも、その時期を乗り越えれば春がやってくる。春になると、世界はたくさんの色に包まれる。赤や黄色や緑。ぼくが知らないたくさんの色が、あちこちでこぼれ出す。そして川のなかでは、たくさんの命が生まれるのだという。

 彼の話は、ぼくらにとっては残酷なほどに魅力的だった。とちゅうで彼もしまったという顔をしていたけど、無理に頼んで話を続けてもらった。見ることがかなわないとしても、世界がどういうふうに動いているかは知っておきたかった。少しでも多くのことを、ぼくは知りたかった。

 でも、彼女はちがった。あの日以来、ふさぎこんだままだ。はじめてここへ来たときのように、話しかけてもそっぽを向いてしまう。これには彼も気をもんでいたけど、彼女の笑顔を取り戻すことはできなかった。ぼくと彼がこうして外の世界の話をしていても、われ関せずとゆがんだガラスの向こうを見つめていた。

 ごはんをあまり食べていないのも気になった。からだがひとまわり小さくなってしまったような気がする。もともと彼女は小柄だったけど、いたいたしいくらいにやせてしまった。病気なのかもしれない。どうしたらいいんだろう。ぼくにできることは、なんとか彼女に笑ってもらおうと話しかけることだけだった。それが彼女を傷つけているなんて思いもせずに、ぼくは外の世界への思いをあれこれ語った。

 手の届かない夢を嬉々として語るなんて、ずいぶん馬鹿げているだろう? 実際ぼくは、なんどもあきらめようと思ったんだ。でも、彼が語る外の世界の話は、あまりにも輝かしくてうらやましかった。何度も無理だと自分に言い聞かせたけど、それでもあこがれは消えてはくれなかった。ぼくは馬鹿だから、だめだと分かっていてもやめられないんだよね。

 きっと彼女は、そんなぼくに愛想をつかしたんだろう。もともと愛想があったかどうか分からないけど、それまでよりもぼくのことを嫌いになってしまったのだと思う。

 彼女も最初は、外の世界に対して希望をいだいていた。でもそれは、ぼくの夢とはまったく違うものだったのだろう。彼女の希望は切実だった。ぼくの夢はのんきだった。そのちがいは大きいよ。夢はかなわなくても夢のままであり続けるけど、希望はちがう。かなわなければ、それは絶望になってしまう。

 できることなら彼女の絶望に、彼女の孤独に寄り添っていたい。ぼくにできることはそれしかないと思う。けれど彼女はかたくなで、ぼくは途方に暮れてゆらゆらと漂うだけなんだ。

 


 奇妙なぼくらの生活は、そう長くは続かなかった。いつものようにのんびりと体を浮かべていると、ガラスの向こうをじっと見て彼がこう言った。
「大丈夫かな、嫌な予感がする」
 ぼくは何のことかわからず、彼の視線の先を追った。

「どうしたの? 何かあった?」
 考えても分からないのでそうたずねると、彼は外が見えるだろう、と言った。
「あそこから、緑が見える。今までは見えなかったのに」
「秋になると緑は赤くなるんじゃなかった?」
「緑のままの葉っぱもあるんだよ。そういうことじゃなくてさ、外が見えるってことは、外とつながってるってことだろ。敵が来なければいいんだけど」

 何を恐れているのか、彼はそわそわと体をふるわせた。敵と言っても、ぼくには想像もつかないから怖がりようがない。唯一知っているのはあのでっかい怪物だけど、ごはんをくれる時以外は近づいてこないし、特に危害を加えられたこともない。定期的に、べつの部屋に無理矢理うつらされるだけだけど、それもこの部屋をキレイにするためなんだと途中で気づいた。

「敵って、どんなやつなんだい?」
「いろいろだよ。そもそもここは小川とは環境が違うから、どんな敵があらわれるかよくわからないんだ。案外安全なのかもしれないけど、用心しとくにこしたことはないけ」

 警戒するように、彼は部屋のなかをゆっくりと、ぐるぐる回り出した。ぼくはどうしていいか分からなくてぼんやりたたずみ、彼女は相変わらず黙りこくったまま、冷たい目で彼の動きを眺めていた。

 そのとき、何か黒い影のようなものが視界の端にうつった。気づいたのはぼくだけだったらしく、彼は相変わらずぐるぐると部屋の中を回遊していた。

 その影がなんだったのか、確かめるまでもなかった。あっという間に、ガラスの部屋の正面に大きな茶色い影が立ちはだかった。あの怪物よりもはるかに小さいけれど、ぼくらの体に比べたらはるかに大きい。この部屋と同じくらいの大きさだろうか。凶暴そうな顔をしていて、牙がてらてらと輝いていた。細めた目に魅入られたように、ぼくはそのまま動けなくなった。

 彼は茶色い影の姿を認めると、少しでも距離を取ろうとあわてて後退した。
「猫だ、つかまったら殺されるぞ」
 そう言って、ぼくと彼女にも逃げるように促した。

 けれど、あまりにも恐怖心が大きすぎて、ぼくは身動き一つ取れなかった。彼女も同じだったのだろう。うつろな目をして、部屋の底に身を横たえていた。ガラスの玉を抱きしめるように、彼女の体は深く沈みこんでいた。

 茶色い影は部屋のまわりをぐるぐる回って、やがて身を乗り出して部屋の天上に手をかけた。部屋が激しく揺れて、さざなみだった。ガラスの壁が割れてしまいそうで、ぼくはもうその姿を見ていられなかった。

「やつの手の先に尖ったものが見えるだろ、あれは爪だ。触っただけで殺されちまう」
 彼の言葉にうなずく暇もなかった。パシャッという音とともに、毛むくじゃらの腕が部屋に侵入してきた。鋭い爪が見て取れた。ぼくたちの体とは似ても似つかない、凶暴な形状だった。

 空間を切り裂くように、そいつの腕は斜めに振り下ろされた。その先には、恐怖で体が硬直してしまった彼がいた。

 次の瞬間、激しい水流が天上に向かってわきおこり、彼の体が吸い込まれていった。ぼくも彼女も、体を持って行かれないように目を閉じて必死で耐えることしかできなかった。

 目を開けると、彼の体が宙を舞っていた。ガラスの部屋よりもはるか上方に彼の体は浮かび上がり、その動きを追いかけるように、茶色い腕が弧を描いていた。

 たくさんのしずくが、光をはらんで弾けていった。彼の体も今にもはちきれそうなくらい、銀色の光をたずさえていた。音もなく、言葉もなく、彼はきらきらと輝きながら堕ちていった。

 そのあと彼がどうなってしまったのか、ぼくには分からなかった。落下する彼の体を追って、茶色い影も姿を消した。それっきり、奇妙な静けさがあたりを包み込んだ。恐怖はさめることなく、震える頭で彼の最期を思った。

 ふと横を見ると、彼女が目を大きく見開いて、彼が落ちて行った方に見入っていた。魅入っていたといったほうが正しいかもしれない。そこに恐怖の色はなかった。うち震えるような、歓びの表情だった。そしてぼくの視線に気づくと、
「また私たちだけになっちゃったね」
 と言った。

カノン (2.外の世界)

 ある日、怪物が新たな同居人を連れてきた。ぼくたちとは体の形も色もまったく違っていて、細くて銀色の、小さな体をしていた。言葉が通じるのかわからなくておそるおそる話しかけると、彼は目をぱちくりさせて答えた。

「なんだよ、金魚の水槽か。おれもやきが回ったってことだな」
 彼はそう言って、部屋の周囲をぐるっと移動した。小柄な分、動きもずいぶん素早かった。

「あの、はじめまして」
「ああ、これからよろしくな。ずっとここで暮らすのかと思うとうんざりするけど、まあこれも運命だと思ってあきらめるしかないんだろうな」
「運命?」
 ぼくが繰り返すと、彼はそうだ、運命だと言ってにやっと笑った。

「まぁ、案外ここで暮らしてたほうが安全かもしれないからな。敵がいないのは何よりだ」
「もしかして……」
 ぼくは胸が高鳴ってはじけてしまいそうなのをこらえて聞いた。
「ここに来る前のこと、覚えているんですか?」
「当たり前だろ、今日つかまったばかりなんだ。覚えてるに決まってるじゃないか」
 彼はずいぶん不思議そうな顔をしていた。そうか、覚えてるのが当たり前なのか。自分や彼女が何も覚えていないことなんて忘れて、ぼくは彼の言葉の続きを待った。

「そうか、あんたらみたいに作られた魚は、記憶がなかったり寿命が短かったり、どこかしらおかしなところがあるって聞いたことがある。まぁ、俺だって自分がまともだなんて思ってないけどさ。ここにいたらみんな同じだしな」
 彼はぼくらのことを「作られた魚」と表現した。作られた? よく意味が分からなかったけど、ぼくが知りたかったのはそんなことじゃないんだ。こことは別の世界のことを、彼が暮らしていた場所のことを聞きたかった。

 ぼくがせかすと、
「そんな思い詰めたような顔をするなよ。時間はたっぷりあるんだからさ」
 彼はそう言ってぼくらをじらして、ゆっくり話し始めた。

 彼が住んでいたのは、こことは比べ物にならないくらい広い、小川というところだった。そこにはいろんな魚がいた(ぼくらは見た目は違うけど、同じ魚という仲間らしい)。魚以外にもたくさんの生き物がいて、楽しいことと危険なことが交互にやってくるような、慌ただしい毎日だったんだそうだ。彼にはたくさんの兄弟がいたんだけど、ほとんどが怪我や病気で死んでしまったらしい。怪我の原因を、彼は語ってくれなかった。それは聞かないほうがいいって、そう言うんだ。

 彼が住んでいた小川という場所は、いつも同じ方向に水が流れていくらしい。このガラスの世界とは大違いだ。ここでは風も吹かなければ、波も立たない。過ぎて行くのは時間ばかりだ。

 ぼくらの世界はどんなにゆっくり泳いでもすぐに同じ場所に戻ってきてしまうけど、彼がいた小川は、その気になればどこまででも泳いでいけるらしい。
「はじまりも終わりもないんだ」
 彼はそう言って笑ってた。

 どこまでも続く世界。終わりのない世界。ぼくはそれを見てみたいと強く思った。彼女も目をキラキラさせて聞いていた。もうこんな狭い世界はうんざりだったから。

 ぼくらがしきりに「すごい」と言ったりため息をもらしたりしていると、彼はあきれたような顔で、
「あんたらが知らないだけで、世の中はもっと広いんだぜ。俺も見たことはないけど、俺がいたところよりもっともっと広い川だってあるらしいし、世界中の川は、海ってところにつながるんだってさ。終わりがないっていうのは、そういうことだ」

 ぼくは頭が悪いから、彼の言う海っていうところがどれくらい広いのか、想像もつかなかった。いつかぼくも、ここを出て海で泳ぐことができるんだろうか。あんまり広いと迷子になってしまうかもしれない。彼女と離ればなれにならないように気をつけないといけない。そんなバカなことを考えていた。

「わたしたち、もうここから出られないの?」
 ぼんやりしてるぼくを横目に、彼女が言った。当然の質問だ。ここを出なかったら、外がどんなに広くても意味がないんだから。やっぱり彼女は頭がいいなと感心してしまった。

 彼は難しい顔をして考え込んでしまった。あんまり彼女が真剣な表情だったから、ふざけるわけにもいかないと思ったんだろう。口は悪いしぶっきらぼうだけど、いい人なんだと思った。

「絶対無理だとは言わないけど、難しいだろうな」
「難しいことなんて分かってる。でも、絶対無理じゃないんなら、何か方法があるんでしょう?」
「いや、方法なんて分からないよ。俺だってここに来たばっかりなんだ。やり方があるんなら、俺が知りたいくらいだ。ただ……」

「ただ?」
 ぼくと彼女は声をそろえて聞き返した。
「ごくたまに、やつらにつかまった仲間が戻ってくることがあるんだよ。やつらは人間っていうんだけどな、俺たちをこうして閉じ込めて生かしておくためには、毎日餌を与えないといけないし、水が濁らないように注意しないといけない。それが面倒になって、捨てにくるんだよ。あんまり身勝手だし頭にくるけど、まぁそういうことだ」

 可能性があるとわかって、小躍りしたくなるくらいうれしかった。希望があるのとないのとでは、まったく違うからね。その日が来るかもしれないのなら、一生懸命生きようと思った。でも、彼女は違ったんだ。どんどん表情が暗くなっていった。涙は見せなかったけど、苦しそうな顔をしていた。

「それじゃあ、なんの確証もないのに待ち続けないといけないの? その日が来ないかもしれないのに? わたしはそんなに待てない。自分の力でなんとかしたいの」
「言いたいことは分かるよ。でも、どっちが幸せなのかも考えたほうがいい。外の世界は確かに広いし楽しいこともあるけど、あんたらが生きていくには過酷すぎると思うよ」
「どうしてそんなことが分かるのよ? 私は、どんな危険が待っていようとここから出たいの。こんなところで死にたくないのよ」
 彼女は肩を震わせて泣き出した。ぼくは何もできず、ただおろおろするばかりだった。そりゃあ、彼女の気持ちは痛いくらい分かるよ。ぼくだってこんなところからはおさらばしたい。寿命が縮まってしまうとしても、外の世界で暮らしてみたい。

 でも……彼女には口が裂けても言えないけど、なんだかんだでここの生活に慣れてしまった自分がいるんだ。黙っていてもごはんが食べられる。敵に襲われる心配もない。彼が言うには、外の世界には敵がたくさんいて、安心して眠ることもできないそうだ。ごはんだって、満足に食べられないことがしょっちゅうあるらしい。生まれながらにそういう環境で育ってきたのならまだしも、ぼくらみたいな世間知らずがそこに飛び込んで、うまくやっていけるか自信がないんだ。

 それにぼくは、彼女と静かに過ごしていたかったんだ。ホントは2人きりでいたかったけど、それはこの際仕方がない。いずれまた仲間が増えてしまうかもしれないけど、なるべく彼女のそばに寄り添っていたかった。

 彼女がそんなことを望んでいるかは分からない。それでもぼくは、彼女が好きなんだ。だって、たった一人の仲間だったんだから。ずっと悲しみを分かち合ってきたんだから。彼女のために、ぼくは生きて行きたいと思ったんだ。

 

 その日の晩、考え疲れて眠っていると、誰かが体を突つくのに気づいて目が覚めた。彼が怖い顔をして、こちらを見ていた。
「悪いな、起こしちまって。2人で話がしたかったんだ」

 見ると、彼女はぼくらに気づかず眠ったままだった。こんな狭いガラスの部屋だから、起こさないように小さな声で話さなければいけない。

「昼間の話の続きかい?」
 ぼくが聞くと、彼はだまってうなずいた。
「お前はあのとき全然意見を言わなかったからさ。やっぱりあの子と同じで、外に出たいのか?」

 どう答えるべきか、正直迷ったよ。外に出たいという気持ちも真実だし、ここに留まりたいという気持ちも真実なんだから。ずいぶん矛盾しているけど、だからどうしたらいいのか分からなかったんだ。

 だからぼくは、彼女と行動をともにしたいと伝えた。彼女がここにとどまるのなら、気持ちが沈んでしまわないように慰めてあげたい。彼女が外の世界に行くことを望むなら、あらゆる危険から守ってあげたい。そして彼女がどちらを選ぶにしても、それを止めることはしたくない。後悔させたくないんだ。

 もちろんそこまでの思いは言わなかったけど、彼は納得してくれたみたいだった。困った顔をしていたし、無謀だって言われたけど、ぼくの気持ちは理解してくれたみたいだった。

「悪いけど、どうすればいいか、今すぐに答えは出ないよ。俺だってここから出られるものなら出たいけど、まだ方法が思いつかないからな。それまではじっと待つしかないぜ」
「待つのは慣れてるよ。今までずっと、ここにいたんだから」

 ぼくが言うと、彼はかすかに笑ってみせた。ここにきてから、はじめて笑顔を見せてくれたような気がした。でも、その笑顔もほんの一瞬だった。彼はまた怖い顔をして、こう言ったんだ。
「ひとつだけ覚悟を決めておいてほしいんだ。外の世界の水が、お前たちに合うかどうかは分からない。水が合わなくて、そのまま死んでしまうことだってあり得るんだ」

 ぼくは何のことだかさっぱりわからなくて、何を聞き返せばいいのかもわからなかった。水が合わない? それで死んでしまうかもしれないって? そんなことあるのだろうか?

「昼に、この世界には川と海があるって話をしただろ。海は川よりもはるかに大きいけど、それだけじゃない。水がまったく違うらしいんだ。俺たちみたいに川で生きているやつらは、海では生きていけない場合もあるんだってよ。まぁ、行ったことがないから分からないけどさ」
「でも、ぼくらは海へ行くわけじゃないんでしょう? 川だったら、君は今までどおり生きて行けるし、君がこの部屋でなんともないなら、ぼくたちだって川に行っても何ともないはずじゃないか」

 声が大きくならないように注意しながら、ぼくは彼にたずねた。少しずつ不安が大きくなるのを認めたくなかった。
「理屈ではそうだな。でも俺が大丈夫だから、お前らも平気だとは限らないんだよ。俺は生まれたときから川で育ったから、多少汚い環境でも生きていける。今までに比べたら、ここはずいぶん暮らしやすいくらいだ。じゃあ、お前らはどうだろう」
「ぼくらは……」

 言葉が詰まって、そこから先を言えなかった。ぼくらはどこで生まれたんだろう? どうやってここに来たんだろう? 一番肝心なところが、ぼくらの記憶から抜け落ちてしまっている。

 そんなぼくの迷いに気づいたからか、彼は慎重に言葉を選んでいるようだった。少しの沈黙のあとで、彼は気を悪くしないでほしい、と言った。
「前に言ったよな。お前たちは、つくられた存在だって。自然のなかで生まれた俺とちがって、お前たちは人間の手で、人間の環境で暮らすために作られたんだ」
「人間のために、ぼくらは生きているっていうこと?」
「そうは言わないよ。何のために生きるかなんて、自分で決めればいいことだ。ただ、自然の厳しさの中で生きていた俺と、人間の環境で作られて、人間の環境で育ったお前たちとでは、生きられる条件が圧倒的に違うんだよ」
「でも、やってみなければ分からないじゃないか」
 ぼくがそう言うと、彼は悲しそうに首を横にふった。

「前に、人間がお前らの仲間を、川に放したことがある。赤い体なんて川では珍しいから、ずいぶん目立ったよ。やつら、はじめて自然ってものを目の当たりにして、嬉しかったんだろうな。夢中で泳ぎ回ってたよ」

 そこで彼はため息をついて、ぼくのまっ赤な体をじっと見つめた。
「でも、時間の問題だった。結局あいつらは、新しい環境に適応できなかった。水が汚かったんだろうな。少しずつ仲間が欠けていった。水の問題だけじゃない、自然の中には敵がたくさんいる。空からは、鳥っていうでっかい翼を持ったやつらが、常に目を光らせてるんだ。お前らの体は目立ちすぎるから、格好の標的なんだよ」

 このときのぼくの気持ちを、どう言い表したらいいだろう。絶望や悲しさや無力感が渦巻いていたけど、一番大きいのはむなしさだった。ぼくは自分のことを知らなさすぎる。彼が言うことをすべて信用するべきではないのかもしれないけど、少なくとも彼は、ぼくの仲間たちのことを知っていた。仲間たちがどんな運命をたどったのかもしっていた。やってみなくちゃ分からないだなんて、生意気なことをいってしまった自分が恥ずかしかった。

 結果は最初から見えていたのに。だから彼は、前向きなことを何ひとつ口にしなかったのだろう。
「あきらめろとは言わないよ。何か可能性があるかもしれない。まぁ、あせらないでじっくり行こうぜ」

 彼は大きくあくびをして、もう寝ようと言った。眠れるわけがないけど、ぼくは一人で考えていたかったから、うなずいて彼に背を向けた。

 眠れるわけがないんだよ。あんな話を聞いて、平気でいられるわけがない。悔しくて涙が止まらなかった。ぼくの涙は次から次へとこぼれ出て、水に溶けて消えていった。天上の小さな光が、敷き詰められたガラス玉に静かに反射していた。覗き込むと、ぼくの顔が小さくうつった。丸いガラスにうつり込んだ自分の姿は、なんだか息苦しく感じられた。

カノン (1.ガラスの部屋で)

 ぼくはバカだから、昔のことなんて覚えていられない。嫌なことがあっても都合良く忘れてしまうし、いいことなんて起こるはずもない。からっぽな頭で、何をするでもなく時間を消費するばかりだ。

 ぼくはどこで生まれたんだっけ。仲間たちは今、どうしているんだろう。そもそも仲間なんていたんだろうか。ぼくはずっと一人ぼっちだったのかもしれない。これからもずっと一人ぼっちなのかもしれない。考え出すときりがないけど、すぐに疲れて眠たくなってしまう。そうして目が覚めたときには、たくさん考えたことなんてすっかり忘れて、虚ろな目をしてこの狭い世界をさまようんだ。

 ここにはホントに、何もない。透明なガラスで囲まれた部屋は息苦しくて、のけぞるように顔を上げないと窒息してしまいそうだ。ガラスの壁はどこもカーブを描いていて、うつり込んだ自分の顔も歪んで見えて、頭がおかしくなってしまう。下を見れば丸いガラス玉が敷き詰められていて、キラキラと光を放っている。確かにきれいなんだけど、それが一日中続くんだ。横を見ても、下を見ても、目が疲れてしまう。だから自然と、ぼくは上を見ることになる。

 上を見たって結局は同じことなんだけどね。他に比べたらまだマシなだけだ。歪んで見えるのは変わらないけど、うつるのは真っ白な天井だから、それほど気にならないっていうだけ。幸いなことに、ぼくの顔もここにはうつり込まない。

 ここに来る前のことを、ほんの少しだけ覚えている。今の何十倍もの広さで、壁も床も真っ青だった。ぼくらの頭上では丸くて白い大きなものがすべるように動いていて、ぼくたちを追い回した。その前は、ぼくはどこにいたんだろう。どうしてここに来てしまったんだろう。そのへんのことは、全然覚えていないんだ。忘れたほうが都合がいいからなんだろうね。きっと嫌なことがあったんだろう。

 1日に2回、上から食べ物が降ってくる。おなかがすいて待ちきれなくて、その気配を感じると、ぼくは頭がしびれたようになって、勝手に体が動いてしまう。みっともないけど、必死に口をあけて、食べ物をとらえようとするんだ。そのときはもう、何も考えられない。それが恥ずかしいと感じることもできない。ただただ夢中で、あとでふと我にかえって、すごくみじめな気持ちになるんだ。

 でもさ、何も起こらない単調な毎日のなかで、たったひとつのイベントがごはんの時間なんだ。そりゃあ夢中になってしまうよ。そのときだけは一生懸命体を動かして、もっとごはんをくださいってアピールするんだ。

 ごはんをくれるのは、大きな体をした怪物だ。ぼくの何百倍、それよりもっと大きいかもしれない。ぼくの体に触れようとはしないし、ごはんの時以外は、ガラスの向こうからときどきじいっと覗き込むだけだ。きっと悪者ではないんだと思う。それでもぼくは、彼のことが怖いんだ。彼の機嫌をそこねたら、ぼくはご飯を食べられなくて死んでしまうかもしれないからね。だからなるべく、おなかがすいてることをアピールしなくちゃいけないわけだ。みじめな気分だけど、生きて行くためには仕方ない。

 おなかがいっぱいになったら、糞をしぼり出す。部屋の中が汚れてしまうけど、こればっかりはどうしようもない。おしりに糞をぶら下げたまま、ぼくはきっと間抜けな顔をしているんだろう。恥ずかしさやむなしさを通り越して、このときにはもう、何も考えられなくなっている。考えてしまったら、きっと生きてはいけないだろうから。



 ここに来てから、どのくらいの時間がたっただろう。いつものようにぼんやり動き回っていたら、何かが弾けるような音が上のほうから聞こえて、振り向いたらたくさんの泡が視界を覆っていた。しばらくして泡が消えると、そこにははじめてこの世界で出会う、ぼくと同じ姿をした仲間がいた。女の子だった。

「あの、こんにちわ」
 おそるおそる話かけると、彼女はぷいっと顔をそむけて、向こうへ行ってしまった。向こうといっても狭い部屋だから、すぐにまたぼくと向き合うことになるんだけれど。それでもようやくできた仲間に無視されたのは、かなり哀しかった。

 彼女はぼくと同じでまっ赤な体をしていたけど、首のまわりだけが白かった。オシャレな子だな、と思った。ぼくみたいにどんくさくて気がきかないやつは嫌いなんだろうか、それから3日くらいは口もきいてもらえなかった。

 ごはんの時間になっても、彼女はぼくみたいにみっともなく口をあけて上を向くこともなく、ずいぶん淡々としていた。2人しかいないからごはんを巡って争う必要もないんだけど、どうしてそんなに平静でいられるのか、ぼくは不思議だった。育ちが違うんだろうか。彼女の立ち居振る舞いを見ていると、自分はすごく卑しいんだなと思わずにはいられなかった。

「狭いわね、ここは」
 それが彼女が一番最初に発した言葉だった。急だったのでちゃんと聞き取れなくて、もう一回言ってもらった。彼女は不機嫌そうに、ここは狭いと言った。
「君がいたところはもっと広かったの?」
「わからない。覚えていないの。ただ、こんなに狭いところではなかったと思う」

 ああ、彼女もぼくと同じなんだ。自分がどこにいたのか、思い出せないんだ。でも、それを知っていたからどうなるというんだろう。どんなに素敵な過去があったとしても、ぼくたちの今は変わらない。それだったら、思い出なんてないほうが幸せなんじゃないだろうか。

「ねぇ、私たち、ずっとここから出してもらえないのかな」
 彼女は哀しそうな目をして、そう言った。きっとぼくより頭がいいんだろうな。だからこの世界に、すぐに嫌気がさしてしまったんだろう。ぼくみたいなどんくさいやつと一緒にいるのが嫌なのかもしれない。

 分からないって答えると、彼女は残念そうにぼくをじっと見て、それから向こうへ行ってしまった。やっぱり嫌われてしまったんだろうな。ぼくは不甲斐ないから。

 それでもぼくは、仲間ができてうれしかった。友達とはいえないかもしれないけれど、一人でいるよりはよっぽど幸せだ。たまにしか返事をしてくれなくても、困ったときに話しかける相手がいるというのは、これはすごくありがたいことなんだ。



 あるときあの大きな怪物が、ごはんの時間でもないのにやってきて、じっとぼくらを見つめていた。ぼくはもう慣れっこだったけど、彼女は怯えて逃げ回っていた。狭い部屋だからどこにも逃げようがないんだけど、そうせずにはいられなかったんだろう。

 突然怪物が部屋のなかに手を突っ込んで、彼女の体をわしづかみにした。彼女は金切り声をあげて、なんとか逃げ出そうと暴れ回ったけど駄目だった。ぼくも必死で彼女を助けようとして、何度も怪物の手に体当たりをしたけど……大きさが違いすぎて、何の効果もなかった。彼女はそのまま持ち上げられて、部屋の外へ連れて行かれてしまった。

 彼女はどうなってしまうんだろう。殺されてしまうんだろうか。それとも食べられてしまうの? 考えれば考えるほど哀しい気持ちがふくらんで、胸が張り裂けそうだった。でも、それも束の間だった。ほとんど間を置かずに、怪物の手がぼくの体をつかんで持っていってしまったから。

 心臓が止まるかと思った。目がぐるぐるまわって、どっちが上でどっちが下なのかも分からなかった。外の世界がどうなってるのか、確かめる暇さえなかった。気が付いたらぼくは、今までよりもっと狭い部屋に閉じ込められていた。

 彼女も一緒だった。それだけが救いだった。不安そうな彼女を見たら、目が回っていたことなんて忘れてしまった。

「大丈夫? 怪我はなかった?」
 そう聞くと、
「大丈夫だけど……私たち、どうなっちゃうの?」
 と、彼女は怯えて肩を震わせた。

 ガラス越しに怪物の姿を見ると、奴はぼくたちが住んでいたガラスの部屋をひっくり返していた。なんてことをするんだろう! あれだけ逃げ出したいと思っていたのに、自分が少しの間とはいえ過ごしていた場所を台無しにされるような気がしてひどく気分が悪かった。

「やっぱり私たち、殺されちゃうのかな」
 彼女はそう言って、そんなの嫌だと涙ぐんだ。ぼくだって、このまま死にたくなんてない。彼女が死んでしまうのも嫌だ。なんとかして守ってやりたい。けれど、ぼくと怪物ではあまりにも大きさが違うし、どうやったらここから出られるのかもわからない。ぼくは自分の無力さに絶望しながら、黙って見ていることしかできなかった。

 こういうときに限って、時間がたつのがずいぶんゆっくりに感じられる。行き着く結末は同じはずなのだから、いっそ早送りで時間が流れていけばいいのに。神様はこういうときに残酷だと思う。心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらい、ぼくらは息を詰めて怪物の背中を見つめていた。

「ねえ」
 ぼくが目を血走らせて周囲を警戒していると、彼女が不意につぶやいた。
「さっき、私のことを助けようとしてくれたんだよね」
「あぁ、夢中だったからよく分からないんだ。ごめんね、役立たずで」
 ぼくが謝ると、彼女はいっそう悲しそうな顔をした。どうして謝るのかと問いたげだったけど、結局それっきり何も言わず、ガラスの向こうを見つめていた。

 やがて怪物が近づいてきて、今度はガラスの小部屋ごと、宙に持ち上げられた。このまま地面に叩き付けられるんじゃないかと目を閉じていたら、激しい音とともにぼくの体はたくさんの泡に囲まれた。あぶくのつぶてが次々にからだに当たって弾けて行った。そうしてまわりが落ち着いていくと、ぼくたちは元の部屋に戻されたことがわかった。こころなしか、ガラスがきれいになったような気がする。緊張のせいで息が苦しかったけど、なんとなく過ごしやすくなったような気がする。

 それでもぼくらは、何が次に起こるのか分からなくて、身を寄せ合って震えていた。怪物がいなくなってしまうまで、ぼくはずっと肩をいからせて、なんとか彼女を守ろうとしていた。

 この奇妙な儀式は、その後も定期的に行われた。何の前触れもなく、ぼくらは狭い部屋に移されて、その間に怪物はガラスの部屋をきれいにしていくらしい。それを思うともしかしたらいいやつなのかもしれないけど、あまりにもやつは大きくて、たとえ親切心であったとしてもぼくらの寿命を縮めることにしかならなかった。

 彼女は決して打ち解けてはくれなかったけど、このときを境にぼくを頼ってくれるようになった。彼女はたとえごはんの時間であっても、怪物が近づいてくるとパニックに陥って逃げ回った。彼女を慰めて、勇気づけるのがぼくの役割だった。

 一人でいるときは退屈で仕方なかったけど、こうしてぼくには、ごはん以外にもやるべきことができた。怠惰な時間は相変わらず多いけど、やるべきことが分かっていれば、時間がたつのも早く感じられる。どのくらい自分が生きられるのか分からなくても、とにかく彼女のために生きようとぼくは誓った。

見張り塔の上から

 その塔からは、はるか地平の先までも見通すことができた。高い建物など他に何ひとつないこの村で、塔の影は長々と横たわり、太陽の動きとともに円を描くように大地をすべっていった。

 アムギがこの見張り塔のうえで暮らすようになってから、どれくらいの年月が流れただろうか。彼は毎日、この村に敵が攻め込んでこないか見張り続けていた。塔の上には鐘が据え付けてあり、外敵を発見したらいちはやく鐘を叩いて下の村人たちに知らせ、迎え撃つ準備をさせることになっていた。そのために、彼は誰かと交代することもなく、昼夜の別なく塔の上に座り続けていた。

 一日中遠方に注意を払っているわけではない。毎日睡眠はとっていたし、空想の世界で遊ぶこともあった。長い監視生活の末に、アムギは物思いに耽りながらも風景の変化を視界のすみにとらえる術を手にしていた。眠りながらも大気の振動を感じ、外界の変化を察知する術を身につけていた。

 この見張り塔は、アムギがひとりで立てたものだった。村人たちは、彼を狂人扱いした。見張り塔など必要ないのだと、誰もが異をとなえた。そもそもアムギが考えているような高さの建物など誰も見たことさえなく、どうやってつくるのか想像もつかなかったのだ。

 道具はどうするのか、材料はどうするのか。村のまわりには平坦な草地が広がっており、木材や岩石を集めるだけでも気の遠くなるような月日を要するだろう。

 それでもアムギはかたくなだった。手を貸すものが誰もいないなら、自分ひとりで建ててみせよう。そのかわり、見張り塔の上には自分以外の何者も、立ち入ってはならない。この村を外敵から守るのは自分でなくてはならない。アムギは強く主張し、やがて建設に取りかかった。

 その作業がどれだけ大変だったか、どれだけの時間を必要としたか、アムギはもう覚えていない。建設中も、建設後も、彼の頭にあるのは失った家族の思い出だけだった。

 

 村が外敵の侵入を許したのは、アムギが30歳を過ぎたころだった。彼には妻と2人の子どもがおり、老いた両親もともに暮らしていた。

 それまでは、争いごとなどとはまったく縁のない平和な村だった。暴力を振るうものもなく、理不尽を押し付けるものもなく、皆おだやかで誠実だった。命というものを慈しみ、年長者を敬い、家族を大切にするものばかりだった。

 それが、たった数時間で踏みにじられた。

 太陽が沈みかけたころだった。遠くから、天にのぼるような土煙があがっていた。徐々にそれは地響きを伴い、村に近づいてきた。

 気づいたときには、既に遅かった。自分たちの土地を持たない凶暴な騎馬民族たちは、あっという間にあらわれて、あっという間に去っていった。後に残ったのはおびただしい屍と、炎に包まれた家々だった。

 女と子どもは、皆つれていかれた。生き残ったのはアムギを含めてごくわずかだった。アムギの妻は馬に乗せられるのを拒み、子どもたちを守ろうとした。力なき抵抗はただただ無力で、彼女は子どもを守ることもできず、命を失うこととなった。アムギの両親はどちらも胸から血を流し、倒れていた。

 何もできなかった。戦うことを知らぬアムギたちは、ただ震え上がって暴虐の限りを見るだけだった。勇を鼓して立ち上がったものたちは、結局何もできずに命を失うだけだった。

 まるで一陣の風が駆け抜けたようだった。アムギたちは声もなく、涙さえも出なかった。聞こえてくるのは、炎が村を焼く音だけだった。

 後悔は日ごとに募っていった。生き残ってしまったことを恥じて、みずから命を絶つものもいた。村を捨てて旅立つものもいた。数えきれないほどの遺体を埋葬したあとで、残されたものは悲しみだけだった。

 アムギはこのときの恐怖で、声を失っていた。遠くまで響く自慢の歌声を聞かせる相手もいなく、彼は沈黙の世界の住人となった。

 もっと早くに気づいていれば、外敵に立ち向かうことができたかもしれない。アムギはずっとそう考えていた。家族を逃がすこともできたかもしれない。立ち向かう勇気を振り絞ることもできたかもしれない。何をどうしたって失われたものはかえってこないが、何かをしなければ、心が引き裂かれてしまいそうだった。

 そうして、アムギはたった一人で見張り塔を建てることを決意した。誰もがアムギをあざ笑ったが、もう彼の目には、目的以外はうつらなかった。村を守ろうというのではなく、家族を奪っていった外敵に復讐しようというのでもなく、見張り塔を建てることで、自分が救われるような気がしたのだった。

 神の視座を手にしたとき、季節は秋だった。かわいた風は地上よりも激しく、見張り塔を頼りなく揺らした。見張り塔の上は狭く、寒かった。アムギは膝を抱えて座り込んで、節々の痛みをこらえながら地平の向こうに思いをはせた。

 

 そこからは代わり映えのない毎日だった。昼がきて、夜がきて、朝がきた。アムギは目を覚ますとまず四方に変化がないかを確認し、何事もないようであれば、心のなかで亡き妻と対話した。

「キグン、また朝がきた。ツルムとサブニは元気にしているか? もっとこの塔を高くすれば、お前たちの姿を見ることができたかもしれないな。この場所よりはるか上に広がる雲のもっと上に、お前たちはいるんだろうな」

 アムギが声を失ったのは、こうして心のなかで家族に語りかけるようになったせいかもしれない。彼のなかで、妻と子どもたちは生き続けていた。そして彼は、遠くを見つめながらも過去に生きるようになった。

 やがて冬がきた。寒風は容赦なく吹き付けて、見張り塔をきしませた。雪は音もなく降り積もり、アムギの体をこわばらせた。しかしアムギはかたくなに、その場を離れなかった。春がきて、夏がきて、季節が巡っていっても、アムギは変わることなくおのれの持ち場を守り続けた。

 どこからさまよい込んできたものか、見張り塔の上にはやがて小鳥が巣をつくり、ひな鳥が声をあげるようになった。親鳥の糞に混じっていた種子が芽をだして、小さな花を咲かせるようになった。アムギはかつて妻のためにつくってやった花飾りを思い出し、ここの草花がもっと増えたら、妻や子どものために何かをつくろうと考えた。

 村人が見張り塔を登ってやってくることは一度もなかった。アムギは完全にひとりだった。もう歩き回る必要もなかったし、誰かに気をつかうこともなかった。アムギは巌のように、動くことも喋ることもしなかった。

 雷鳴が轟く日には、アムギは激しい雨に打たれながら家族のことを思った。

「キグン、哀しいのか? 怒っているのか? 俺も早くお前たちのところに行きたいと願っているが、かといってこの村を捨てるわけにもいかないのだ。どうか分かってほしい」

 そうしてアムギは不自由な体を懸命に折り畳み、額を床に押し付けて天に祈った。濡れそぼった体は熱を失い、間断なく震えていた。雷は見張り塔を打つことなく、遠ざかっていった。アムギは天に感謝して、妻の慈愛をよろこんだ。

 親鳥からえさを与えられるばかりだったひな鳥たちは、少しずつ成長し、巣立ちのときを迎えた。アムギが見守るなかで、一羽また一羽と、はじめての飛翔に挑んでいった。彼らは翼を広げ、風を切り、天高く駆け上がっていった。どうか自分の思いを妻たちに届けてほしいと、アムギは願った。

 一羽だけ、いつまでたっても巣立ちができないひな鳥がいた。生まれつき障害を持っていたのか、翼を広げることさえできない様子だった。

 親鳥や兄弟鳥たちは、この不自由な一羽のために、餌を運んできた。仲睦まじい家族だった。もはやアムギにはこの鳥たちを食べようという気持ちなどなく、彼らの営みに心慰められる日々が続いた。

 

 夏が終わりを迎えようとしていた。相変わらず四囲の景色に変わりはなかったが、見張り塔の上の小さな世界には、ひとつの変化が生まれていた。

 あれほど仲のよかった鳥たちが、争いをはじめたのだ。争いというよりは、一方的な暴力だった。痛めつけられていたのは、あの不自由な、飛べない鳥だった。

 アムギは彼を守ることをせずに、じっとこの虐待を見守っていた。なぜあんなに仲の良かった家族が、こんなことになってしまったのか。なぜこの飛べない鳥は、暴力にさらされながら、されるがままになっているのか。アムギの手のひらに乗るような小さな体にもかかわらず、彼らは何らかの意志と理不尽を抱えている。それがアムギには不思議だった。

 暴力も、そう長くは続かなかった。体の大きな親鳥が、不自由な一羽の首元をくわえて、外に放り投げたのだ。小さな体は翼を広げることもできず、重力のとりこになった。風に乗ることもなく、日差しの熱を羽にたくわえることもなく、一直線に落ちていった。

 するとこの鳥の家族は、一斉に飛び立っていった。落ちていく仲間を見届けることもせず、太陽に向かって羽ばたいていった。後にはからっぽの巣だけが残った。アムギはまた、孤独をかかえて過ごすようになった。

 一本だけ残された親鳥の羽を、アムギは髪にさした。かつて妻が、鳥の羽で装飾具をつくっていたことを思い出したのだった。

「キグンよ、俺にも翼があれば、お前たちのところへ飛んでいけるのだが……。俺にも翼があれば、ツルムとサブニを羽毛で抱きしめて、これからやって来るであろう寒さから守ってやれるのだが……。俺にはまだ、何もできないのだな」

 沈む夏の陽をじっと見つめながら、アムギは赤く染まった空の向こうに家族の顔を思い描いた。

 秋は寂しい季節だった。鳥たちが去り、夏の暑さが遠ざかってしまうと、何の変化もない日々が続いた。地上では木々が色づき、収穫に皆心を躍らせていただろう。しかしアムギが暮らすこの場所は、そのような変化とはまったく縁がなかった。太陽がのぼり、世界を真っ赤に染めて沈んでいく。そのあとには月がのぼり、深い夜空に星々を散らす。秋はそれだけだった。それだけが延々と続いていった。

 そうしてまた冬がやってきて、季節はくるくると巡っていった。冬に枯れてしまった草花も、春になればまた芽を出して、小さく可憐な花を咲かせた。暖かくなれば渡り鳥がやってきて、歌いながら巣をつくった。そんな巡りのなかで、アムギは変わらず家族のことを思いながら、地平の果てを見つめていた。

 

 どれだけの歳月が流れただろうか。周囲には相変わらず何もなく、地平線まで延々と草原が広がり、空は果てもなく青かった。ある日の午後、ついにアムギは異変を感じ取った。はるか彼方から、何かが近づいてくる。土煙は竜巻のように天に向かって駆け上がり、そのうねりの真下を、大地を轟かせながら駆ける騎馬の一群が目に入った。

 ついに来るべきときが来たかと、アムギは生唾を飲み込んだ。かつてこの村で行われた略奪を思い出し、アムギはかわいそうな家族のことを思った。

 鐘を叩く棒を手に取ると、アムギはあらためて亡き家族に思いを馳せた。

「キグンよ、ついにこの日が来た。お前たちを失ってから、俺はずっと、この日が来るのを待っていたのかもしれない。この鐘をたたけば、村の者たちがすぐに迎え撃つ準備を始めるだろう。決してあのときのようにはさせるまい。二度と同じ過ちはおかさないから、どうか俺たちの戦いを見守っていてくれ」

 アムギは目を閉じて、妻に語りかけた。あの日から時間が止まってしまった妻の面影は、若く美しいままだった。両脇には子どもたちが恥ずかしそうに立っていた。父親と面と向かって接するのに慣れていないのだろう。教えてやりたいことはたくさんあったのに、不憫なことをしてしまった。

 今は過去を振り返るときではない。アムギはそう決心し、長い間出番を待ち続けていた鉄製の鐘をたたいた。最初は探るように小さな音だったが、その音は徐々に大きくなり、鐘をたたく腕の振りも激しくなっていった。

 鐘の音はあたり一帯に響いた。鼓膜をやられてしまったものか、アムギにはもう、何も聞こえなかった。近づいてくる騎馬民族の足音も、地響きも、耳で感じることはできなくなっていた。

 しかしもう、これでアムギは役目を果たしたのだ。あとは村の人間たちがどうにかしてくれるはずだ。アムギは鐘から目を離し、押し寄せる騎馬民族に視線を転じた。

 なんという勢いだろう。大地は彼らのために揺れ、空気は彼らのために熱を増していくように思えた。日がかげり、太陽が姿を消しても、土煙は陽炎のように燃え上がった。

 アムギはこのとき、死を覚悟していた。塔の上にいる自分は、格好の的になるだろう。矢の雨が降り注ぐかもしれない。炎に巻かれて塔が倒されるかもしれない。しかしそれでもいいとアムギは思っていた。自分にできることはすべて終えたのだ。このまま家族が待っているところへ行くのも悪くはない。

「キグンよ、もう少しだ。もう少しで、俺はお前のところに行けるだろう。ツルムとサブニにもう一度会えるのだ。こんなにうれしいことはない」

 アムギは大きく息を吸い込んで、もう一度力強く鐘を叩いた。

 甲高い金属音は、草原を駆けて騎馬民族のもとまで届いただろう。空気を切り裂いて、狂ったように目を見開いて駆ける馬たちに響いただろう。その背にまたがり下卑た笑いを浮かべる敵どもの耳を貫いただろう。

 これでアムギの居場所も、明らかになってしまった。逃げることはかなわない。村が蹂躙されれば、アムギも生きてはいられないだろう。それでいいのだと、アムギは自身を納得させた。ここで死ぬことこそが、ずっと一人で生きてきたアムギの希望となっていた。

 少しずつ、騎馬民族の姿が鮮明になってきた。村人たちはもう準備を終えたのだろうか。見張り塔の上で暮らすようになってから、彼らとはまったく関わりをもたない。お互いに姿を見たこともない。武器を手に立ち上がった勇敢な男たちのことを想像し、アムギはすぐに始まるであろう戦いのことを思った。

 天にのぼる煙はどんどん濃くなり、襞のようなうねりを肉眼ではっきりととらえられるまでに近づいていた。鐘をついたときに耳を悪くしていなければ、馬のいななきや地響きが聞こえてきただろう。まばたきをするたびに、敵は一足飛びに近づいてきた。見張り塔もその熱気にあおられてかすかに揺れているようだった。

 村人たちの動きはまだ感じられない。アムギはそれを不審に思ったが、確かめるすべはなかった。今更見張り塔を降りることなどできないのだ。狭い場所で長いあいだ不自由をかこっていたせいで、アムギの体は衰弱しきっていた。立ち上がることさえおぼつかず、ましてや声を張り上げて合図を送ることなどできるはずもなかった。

 直前まで敵を引きつけるつもりなのだろうか。傾きかけた太陽が見張り塔の影を伸ばし、その先端を騎馬民族の先頭が踏みつけても、村からは誰も出てはこなかった。荒ぶる馬たちがどれだけ村に近づいても、武器を手に立ちはだかるものはなかった。

 結局みな、恐怖に負けて動けずにいるのだろうか。だとすれば、自分が今まで見張ってきたことは何の意味もないではないか。

 かといって塔を降りることもできず、声をあげて叱咤することもできず、アムギは煩悶しながら来るべきときを待つことしかできなかった。

 この命がここで果てるにしても、せめて何人かは道連れにしてやろうと、アムギは固まった関節を無理に伸ばして膝建ちになり、柱にくくりつけられていた鐘を取り外した。風雨にさらされてずいぶん薄汚れてしまったが、重みだけは昔と変わらなかった。大事に鐘を抱えながら、アムギはもう一度、鐘を叩いて鳴らした。今度は鈍い音が反響するだけだった。

 アムギはあきらめて目を閉じた。きっとこれまでの鐘の音も、下までは届かなかったのだろう。何のために今まで懸命に見張りを続けていたのか、それを思うと口惜しくてならなかった。

 そうするうちに、騎馬民族はもう目と鼻の先まで近づいていた。彼らは縦に列を成して、大地を裂かんばかりに土煙を巻き上げて疾走していた。とても迷いなど感じられず、彼らにとって殺戮と略奪は何ら心の痛むことではないのだと思い知らされた。

 彼らは速度を緩めることなく、そのまま村に飛び込んでいった。アムギは目を閉じて、抱えていた鐘を真下に放り投げた。シュルシュルと音を立てながら、鐘は馬上の敵に向かって落下していった。

 しかし鐘は、誰にかすることもなく地面にぶつかって、跳ね転がっていった。これで上に人がいることは気づかれてしまったはずだ。一斉に矢が打ち込まれ、自分は命を失うのだろう。それでもいいと思い、アムギは天を見上げた。

 

 村人たちは勇敢に戦っているだろうか。塔のまわりは血に染まっているだろうか。アムギは空を見つめながら、はるか真下で繰り広げられているであろう戦いを思った。結局村人たちの力になれなかったことを呪い、しかしもうすぐ潔く死ねるのだという思いが快楽のように胸を満たし、下の世界とアムギとを切り離していた。

 見張り塔の反対側にいざり寄り、アムギは再び眼下を見た。そこには、何の混沌もなかった。騎馬民族たちは来たときと同じ速度で、村を駆け抜けていった。誰一人立ち止まることなく、まるで何事もなかったかのように悪意が通り過ぎていった。

 抵抗するものも、命を失うものも見当たらなかった。村人の姿はどこにもなかった。アムギは鐘を叩くための棒を拾い上げ、真下の敵に投げつけた。

 確かに棒は、敵の頭にぶつかった。しかしそれは影にぶつかったかのように、はじかれることもなく敵の体に吸い込まれていき、地面に転がった。アムギは手当り次第に身の回りのものを放り投げたが、何度やっても同じことの繰り返しだった。アムギの投げたものは、敵の体を通り過ぎていくだけだった。

 アムギは自分の手を見た。節くれ立った長い指は半透明で、景色が透けて見えた。指だけではなく、腕もそうだった。そして手と手を合わせようとしても、すれ違うばかりだった。右手と左手の指が触れ合うことはなく、何度やっても感触をつかむことはできなかった。

 疑念が膨らむたびに、アムギの体は透き通っていった。涙は流砂となり、足下に小さな山をつくった。いつの間にか沈みかかった太陽は、アムギの胸を透かして光を地面に届けた。少しずつ気が遠くなっていくなかで、アムギはもう一度眼下を見た。

 騎馬民族は、もう残りわずかだった。そのすべてが、立ち止まることなく村を通り抜けていった。

 よく見れば、彼らは兵士だけでなく、馬の後ろに女子どもを連れていた。最後尾の男も同じで、家族を連れて移動しているようだった。

 最後の男は塔の下を通過して少し離れると、振り返って上を見た。アムギは彼の目を見た。気づいているのか気づいていないのかは分からないが、彼はじっと、塔の上を見やっていた。

 やがて男は背袋から取り出した弓矢を構え、弦を引き絞った。
 一瞬にして、矢は男の手から放たれた。するどいうなりをあげて、矢は塔に吸い込まれていった。上まで届くことはなく、塔の中ほどに突き刺さった。矢は燃え上がり、灰となって消えた。

 アムギはその一部始終を見守ると、胸をおさえて後ずさった。透明な胸から、赤い血が流れ出していた。血はあふれた先から砂にかわり、とめどなくこぼれ落ちていった。

 蜃気楼のように、アムギはそこにたたずんでいた。自分の体が消えていくのが分かった。意識ははっきりしているのに、体の感覚が失われていく。胸にあいた穴を押さえ、アムギはひざまずいた。

 誰もいないのだ。

 いや、誰もいなかったのだ。

 ようやくアムギは、そのことを思い知った。誰もいない村を、アムギは守り続けていたのだ。やがて現実と空想の境はなくなり、アムギは思い出に生きるようになった。気の遠くなるような歳月を、アムギは一人で無意味に過ごしていた。

 いつから俺の体はこんな風になっていたのだろう。透明で、実体がない。それは死んでいるのと同じことだった。

 矢を放った男は、馬からおりて塔を見上げていた。

 男ではなかった。いつの間にか髪が伸びており、衣服も女性のそれへと変わっていた。馬の姿も消え去り、両脇に幼子を連れていた。

「キグン……」

 アムギは中空に手を伸ばしてうめいた。砂の涙はサラサラと流れ落ち、糸のように大地に吸い込まれていった。アムギがその場にくずおれると、見張り塔は矢を受けた部分から崩れだし、灰となって宙にあふれた。まるで霧のようにあたりを包み込み、落日の光を受けて黄金色に染まった。

 足下が崩れ、アムギは大地へと落ちていった。すでにアムギの実体はなかったが、黄金の霧をかき分けて、愛しい者たちのもとへと吸い込まれていった。

 もはや見張り塔は跡形もなく、あとには果てしない草原が広がるだけだった。夕闇のなかで白い花々が咲き群れて、金の風にそよいでいた。

水遊び

 うだるような、暑い夏の午後だった。直子がウチワで涼をとっていると、玄関のベルが鳴った。ずいぶんせっかちな鳴らし方に感じられた。少なくとも近所の住人たちは、このような鳴らし方をしない。

 宅配便かと思い、重い腰をあげて玄関をあけると、そこに立っていたのは鼠色の塊だった。かすかに震えながら異臭を放つその塊の、ちょうど直子の腰くらいの高さに、涙にぬれる瞳がついていた。

「良一ったら……またやったの」
 思わず直子が咎めると、良一は上目遣いで母親の顔を覗き込んだあと、すぐに視線を足元に転じてしまった。涙を見られたくないのだ。うつむいて涙をこらえる両肩が、結局は制しきれずわなないていた。

 鼠色の塊は、直子の一人息子の良一だった。学校からの帰り道、用水路に落ちたのだ。用水路といっても、汚泥がぬかるむどぶ川のようなものだ。横幅が1メートルほどあり、子どもたちの度胸試しの格好の舞台となっていた。小学校低学年の子どもが、立ち幅跳びで飛び越えられるかどうかという絶妙な幅なのだ。普通に飛べばまず落ちることなどないが、ちょっとでも怖じ気づいてしまうとひどい目にあう。春先頃から、むき出しのままでは危険だから蓋をするようにと町内会で声があがっていた。

 度胸試しをしようと友達に誘われて断りきれなかったのだろうか。もしかしたらいじめられているのかもしれない。しかし良一は、一人で歩いていてもどぶにはまるような子どもだ。よそ見をしながら歩いていて、うっかり落っこちてしまったのかもしれない。見たところ、どこも怪我はしていないらしい。特に痛いところもなさそうだった。

 「水かけてあげるから、そこで服を脱いじゃいなさい」
 良一は心細そうに「うん」と答えると、小さな声で「ごめんなさい」と付け加えた。

 服を脱いだ良一を裸で庭に立たせると、直子はホースで、水をかけてやった。夏の暑さが、水煙に溶けていく。良一の体も、みるみるうちに汚れが落ちていく。

 さっきまでの気怠さが嘘のようだった。キレイ好きの直子にとって、平気で泥だらけになって帰ってくる息子に怒りを覚えることもあるが、それをキレイに洗い流してやることにたとえようのない愛おしさを感じるのだった。

 背中を洗い終えてこちらを向かせると、良一はまた上目遣いに直子を見て、目を伏せた。それを何度も繰り返した。

 ああ、この子も楽しくなってしまったのだと、直子は思った。けれど悪いことをしたから、笑うべきではないと考えているのだろう。いじらしさとわずらわしさがないまぜになって、直子はホースの先端を細めて水圧を強めた。放たれた水鉄砲が、良一の胸ではじける。おさない笑い声が、夏空に吸い込まれていった。

釈迦と阿修羅

 一

 

 「罪深い」という言葉があるが、罪の深さは地獄の深さに直結する。東洋では大きく8つに分かれ、これを八大地獄、あるいは八熱地獄などと呼ぶ。

 地獄では永遠に責め苦が続くわけではないが、蚊を殺した程度の罪でさえ、許されるまでに1兆6653億1250万年もの歳月を要するという。これは八大地獄のなかでは最も楽な、等活地獄における話である。カンダタが落ちたのは八大地獄のうち5番目の階層にあたる大叫喚地獄あたりであろうから、6821兆1200億年は苦しまねばならぬ。

 考えてもみるがいい。6821兆1200億年分の罪人が、この地獄の一画に集められているのだ。仮に世界中から、大罪人が年に100人ここに落ちてきたとしたら。もはやケタは兆にとどまらぬ。日常生活ではまず使われぬ、「京」という単位にまで達するのである。

 カンダタがどのくらいの時間を地獄で過ごしてきたかなど、お釈迦様には知るよしもない。蓮池をのぞき見たら、どこかで見た顔があった。極悪人には違いないが、たしか蜘蛛を助けたことがあったはずだ。ならば蜘蛛の糸を垂らして救い出してやろう。慈悲といえば聞こえはいいが、どんな悪人にだって虫を助ける程度の心温まるエピソードはあるものだ。たまたまカンダタの運が良かったに過ぎぬ。お釈迦様の気まぐれに過ぎぬ。

 カンダタは天から垂らされた糸に気づき、脱出を試みた。心躍るような気持だったであろう。数千兆年をひとっ飛びに飛び越えて、あわよくば極楽の住人になれるかもしれないのである。

 しかし事はそう甘くない。糸を登るのに疲れたカンダタが下を見ると、数えきれぬほどの罪人が彼を追っていた。はるか下方に豆粒のように小さく見える程度だったから追い越されることはまずないが、カンダタが恐れたのは糸が切れることであった。自分ひとりを支えるのさえ頼りない、細い糸だ。このままでは切れてしまうに違いない。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ」カンダタが大声で喚いたのも無理はない。

 しかしこのとき、お釈迦様は別の心配をしていた。蜘蛛の糸は絶対に切れないのだ。金剛王宝剣でも切れなかった。カルラの炎にも溶けずに残った。そもそもこの程度で切れるくらいなら、はなから地獄に垂らしたりなどしないのだ。

莫迦者め……」

 お釈迦様がつぶやいたとき、極楽が微かに揺れた。6821兆1200億年×100人、少なく見積もっても682京1120兆人の重みが、蜘蛛の糸の一点に集中しているのである。極楽は徐々に、地獄に引き寄せられている。

カルネアデスの板」という哲学問題がある。舟が難破し、放り出された海で板切れにすがりついた船員がいた。安堵もつかの間、気づけば別の船員が同じ板につかまろうとしている。この薄っぺらい板が2人の重みに耐えられるとはとても思えない。後から来た船員を突き飛ばして、自分ひとりが助かろうとするのは果たして罪であろうか。

 刑法でいうところの緊急避難ととらえれば、罪には問われないだろう。しかしカンダタの場合、自分が助かるために突き飛ばそうとした相手は一人ではない。自分ひとりが助かるために、天文学的数字の罪人たちを足蹴にするのは許されるだろうか。

 このように、「カルネアデスの板」を「蜘蛛の糸」に置き換えて考える人は意外に多い。しかし真に罪に問われるべきはカンダタなのか。結果的に、カンダタは数多の罪人を道連れに、再び地獄に転落していった。だがよくよく考えてみれば、カンダタ自ら蜘蛛の糸を切ったわけではないのだ。罪人たちの重みに耐えかねて極楽が地獄に堕ちるのを恐れて、あるいは京兆にのぼる罪人たちが極楽を蹂躙することを恐れて、お釈迦様が手をかけたのである。

「許せ」

 お釈迦様が告げた相手はカンダタではなく、その下に連なる罪人たちでもなかった。視線の先には蜘蛛がいた。糸を切ることができぬなら、蜘蛛もろとも、糸を地獄に落すしかないのである。お釈迦様が手を払うのが先か、蜘蛛がみずから身を投げるのが先か分からなかった。お釈迦様の視線の先には、奈落の底へと吸い込まれて行く蜘蛛の姿があった。

 

 

 二

 

「つまり等活地獄っすねー」

 邏卒の牛頭馬頭にとらえられてうなだれるお釈迦様の前に、阿修羅が立っていた。

「お釈迦様ともあろうお方がねぇ。蜘蛛を助けたカンダタを助けようとして、結局蜘蛛もろとも地獄に落しちゃうなんて洒落になんないっすよ」

「じゃあ何か、極楽が消えてなくなっても仕方ないというのか」

 お釈迦様が恨めしそうに問うと、阿修羅はあわてて「いやいやいや、それ言うと話がややこしくなるんで! どっちにしても殺生しちゃったのは事実なんだから、そこから考えていきましょうよ」と言った。

 まさか阿修羅が自分の弁護人になるとは思わなかった。今ではイケメンだなんだと巷の女子にキャーキャー言われているが、こいつだって元をただせば暴力好きのクソヤンキーなのである。帝釈天に毎度喧嘩を売っては返り討ちにあっていたというのは、極楽では有名な話である。

「だいたいお前、閻魔の前で反論なんてできるの? 私の弁護なんてできるの?」

「だーいじょうぶ。逆転裁判で練習してますから。異議あり! って言えばいいんでしょ?」

 頭が痛くなってきた。腕力にものを言わせてのし上がって来たこいつに期待すべきではないのだ。そもそも、悪党で知られた阿修羅を導いたのは他の誰でもない、お釈迦様自身であった。彼の説法が、阿修羅を改心させたのである。よくよく考えてみればこいつもカンダタも大差ない。

「あの日のお釈迦様の説法、俺いまでも忘れられねーんす。俺もあっちこっちでストリート説法やってるんすけど、莫迦だからすぐヤベーだのパネーだの言っちゃうし。でも今度はまじヤベーっすから。聞いてくださいよ、俺の説法!」

 それを釈迦に説法というんだよ。喉元まで出かかったが我慢した。「相変わらずうまいっすねー」とか言われそうで癪なのだ。釈迦だけに。あぁ、自分もちょっとおかしくなってきている。

「そもそもさ、なんで弁護人がお前なの。大日如来あたりが良かったよ。あいつ物知りだし」

「大日様は羅生門が藪の中で大変だとかで出張中なんですよ」

「まだ解決してなかったのか。2つまとめるからややこしくなるんじゃないのかね」

「いや、黒澤なんとかいうやつが真相を突き止めたはずだったんですけど、河童が足をひっぱってるみたいで」

 なんだか鼻がむずむずする話である。タッタが悪さをしているのかもしれない。

「弥勒はどうした。他力救済といえば弥勒だろう」

「あいかわらず須弥山にこもってるみたいで、56億年待った甲斐があったとか喜んでるらしいっす。あいつ下克上狙ってますよきっと」

 どいつもこいつも当てにならない。

「で、実は俺もダメ元で立候補したんす。成り上がりのチャンスだと思って。そしたらあっさり、閻魔様からお前やれって言われちゃって」

 もしや、はめられたのではあるまいか。カンダタを救おうとしたのは慈悲のあらわれに他ならないが、閻魔からすれば面白くないだろう。カンダタに罪人の烙印を押したのは閻魔自身なのだ。お釈迦様の行いは、その決定を覆すようなものなのだから。閻魔の顔に泥を塗ったに等しいのである。

 いや、もっと根は深いかもしれない。以前、地獄に堕ちた公務員がクーデターを起こしたことがあった。閻魔に代わって地獄の王となったその男は湯水のように金を使い、地獄の予算をすべて使い果たすと今度は極楽への侵攻を開始した。公務員の上司の説得によって事無きを得たが、どうも話がうまく運びすぎている。クーデターの黒幕は釈迦なのではないか。閻魔がそのように考えていると、風のうわさで聞いたことがあった。

 その公務員も最近ようやく引退したと聞いている。なんでも借金がすさまじい額で、とても人間界では返済できないという。ふたたび地獄極楽を制圧しにやってくるかもしれない。

 要するに閻魔は、自分を地獄に落して極楽を乗っ取ろうとしているのだろうか。まさか公務員と手を組んで!? だとすれば、閻魔が阿修羅を弁護人に選んだのも腑に落ちる。この莫迦には弁護などできないと踏んでいるのだろう。

「俺まじがんばりますから! お釈迦様の弟子みたいなもんだし、リングでは蜘蛛の化身で通ってるし。蜘蛛の糸殺人事件の真犯人は俺が暴いてみせますよ。じっちゃんの名にかけて!

「ちょっと待って……」

 突っ込みどころが多すぎてどうにもならない。

「リングって何なの」

「あー、まだ言ってなかったでしたっけ。最近俺、プロレス始めたんすよ」

 イケメン仏像ブームが下火になってきたから、最近女子に人気のプロレスに触手を伸ばしたのだという。守護神のくせにプロレスやってる莫迦がいると聞いたことはあるが、まさか阿修羅だとは思わなかった。そういえば悪魔なんとかいう団体に属しているらしい。改心したんじゃなかったのか。

「サンシャインってやつとコンビ組んでるんですけどね。あいつったらおでこと胸に光輪のタトゥーなんか入れちゃって。信仰心半端ないっすよねー」

 入場テーマはRADの「おしゃかしゃま」らしい。NIRVANAも捨てがたかったが、グランジおやじを喜ばせても仕方がない。女子に受けるのはRADだと踏んだらしい。どうでもいい。

「いろいろ思い出してきたぞ。お前最近、周りに阿修羅男爵って呼ばせてるらしいじゃないか」

「ややややや、それお釈迦様の勘違い! ディーノじゃあるまいし!」

「ディーノは男爵じゃなくて男色だろう」

「えー、お釈迦様って案外世間知らずなんですねぇ。本家本元は男爵ディーノなんですよ」

 向かって左側の子どもっぽいほうの顔で、得意げに踏ん反りかえっている。だんだん苛ついてきた。邪鬼にでも頼んでぶっ飛ばしてもらおうか。

「だいたいお前さ、インド出身って言ってるけど本当なのかね。日本にも阿修羅って名前の、二頭身の餓鬼がいたって聞いたことあるぞ。とんでもない悪たれで、有害図書指定されたとかって」

「いやー、阿修羅なんてどこにでもある名前ですからね。平安時代とか知らないし。仏教守護神一筋だし」

 と言いつつこの男は、ヒンズー教バラモン教ゾロアスター教にまで見境なく首を突っ込んでいる。

「最近コーポレートガバナンス・コードの影響でどこの宗教も社外取締役ほしがってるんすよ。俺みたいに有能だと、あっちこっち引っ張りだこで、阿修羅は一人じゃない、四人いるなんて都市伝説もあるくらいで」

「お前のは有能じゃなくて、八方美人なだけだろう」

「違います、三方美人ですよ。はっはー」

 いい加減うんざりしてきたのを感じ取ったのか、阿修羅は突然表情を変えた(中央の顔に戻した)。いつになく真剣な面構えだ。

「真面目な話、俺、トークなら誰にも負けないつもりなんすけどね。3人分しゃべれるし、お釈迦様のためなら舌ひっこぬかれたってかまいませんよ。でも閻魔は汚い野郎ですから、何たくらんでるか分からないし。お釈迦様も慎重に振る舞ってくださいよ」

 分かってるよ、そんなこと。急に弟子らしく殊勝なことを言ってくれるものだから、ちょっと涙が出てしまう。気が小さくなっているのだろう。

 杜子春という男に対する閻魔の仕打ちは広く語りぐさになっている。黙秘を決め込む杜子春の口を開かせるために、閻魔が用意したカードは二匹の獣だった。人の顔をした二匹の馬。それは畜生道に落ちていた、杜子春の両親だったという。若いころには地蔵になりすまして、菅笠をかぶせてくれた老夫婦の後をつけて略奪に及んだという噂もある。きっと今回も、卑劣な罠を用意しているだろう。

「それともうひとつ。カンダタが証人として呼ばれてるらしいんすけど、帝釈天の野郎も裏で絡んでるっぽい」

 阿修羅は帝釈天を目の敵にしているから、鼻息荒くなるのも無理はない。しかしそれだけではなさそうだ。

 負け続けの阿修羅だが、一度だけ帝釈天を追いつめたことがあった。逃げる帝釈天と追う阿修羅。このまま距離をつめて決着をつけようと思ったところ、突如帝釈天は向きを変え、再び阿修羅に挑んできた。彼の行く手には、道をわたる何万匹もの蟻の姿があったのである。取るに足らぬ命だとしても、弱者を踏みつけにすることはできなかった。帝釈天は逃げるのをやめて、勝ち目の薄い戦いに身を投じたのである。

 阿修羅と帝釈天の争いは、1対1の私闘ではない。お互いに軍勢を率い、生き残りをかけた血で血を洗う戦いである。蟻に情けをかけたがために、帝釈天の軍勢は皆殺しにされるかもしれない。それでも彼は揺らがなかった。

 そんな帝釈天のことだから、お釈迦様の行いに腹をたてているのだろう。

「俺は莫迦だから、どっちが正しいかなんて分からないっすよ。アリンコと自分の仲間を本気で天秤にかけた帝釈天が正しいのか、極楽を守るためにカンダタや罪人たちと一緒に、蜘蛛を見捨てたお釈迦様が正しいのか……」

「自分が正しいと思わなければやりきれないがね。しかしそれを決めるのは私でもお前でも、閻魔でも帝釈天でもない。切り捨てられたカンダタや蜘蛛なのだろう」

「俺はやっぱり、帝釈天の考え方は青臭くて嫌いなんですけどね。お釈迦様のほうがさっぱりしてていいや。でも女はああいう理想論振りかざすタイプがいいんだろうなぁ。あの野郎、俺の娘をたぶらかしやがって……」

 少々おかしな雰囲気になってきたが、阿修羅なりに気をつかってくれているのだろう。

 もうすぐ閻魔の前で尋問が始まる。何が起こるか分からないが、修羅場になるのは間違いあるまい。もとはといえば自分の軽率さが招いた事態なのだから、罰されても文句は言えまい。奈落の底へ突き落とされたなら、そこでカンダタと語りあってみよう。永劫をともにすれば、きっと分かり合えるような気がする。蜘蛛にも謝罪しなければならない。決して切れぬ糸をカンダタとの間に紡ぐことが、蜘蛛に対してお釈迦様ができることのすべてであった。

 

 

 三

 

「そうだお釈迦様、裁判の入場テーマどうしましょうか。『おしゃかしゃま』は俺のだからダメっすよ。修羅場っつったらやっぱ事変ですかねー」

「いや……」

「そっかお釈迦様世代だと、修羅場っつったらラ☆バンバか。ぶち上げてきましょう! わっしょーい」

「もうやめて……」

 お釈迦様の周りには、何ともいえない香ばしい匂いが絶え間なくあふれていた。極楽ももう夜近いのである。