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ものがたりたがり

戯れに書いた短編小説などなど。

カノン (1.ガラスの部屋で)

 ぼくはバカだから、昔のことなんて覚えていられない。嫌なことがあっても都合良く忘れてしまうし、いいことなんて起こるはずもない。からっぽな頭で、何をするでもなく時間を消費するばかりだ。

 ぼくはどこで生まれたんだっけ。仲間たちは今、どうしているんだろう。そもそも仲間なんていたんだろうか。ぼくはずっと一人ぼっちだったのかもしれない。これからもずっと一人ぼっちなのかもしれない。考え出すときりがないけど、すぐに疲れて眠たくなってしまう。そうして目が覚めたときには、たくさん考えたことなんてすっかり忘れて、虚ろな目をしてこの狭い世界をさまようんだ。

 ここにはホントに、何もない。透明なガラスで囲まれた部屋は息苦しくて、のけぞるように顔を上げないと窒息してしまいそうだ。ガラスの壁はどこもカーブを描いていて、うつり込んだ自分の顔も歪んで見えて、頭がおかしくなってしまう。下を見れば丸いガラス玉が敷き詰められていて、キラキラと光を放っている。確かにきれいなんだけど、それが一日中続くんだ。横を見ても、下を見ても、目が疲れてしまう。だから自然と、ぼくは上を見ることになる。

 上を見たって結局は同じことなんだけどね。他に比べたらまだマシなだけだ。歪んで見えるのは変わらないけど、うつるのは真っ白な天井だから、それほど気にならないっていうだけ。幸いなことに、ぼくの顔もここにはうつり込まない。

 ここに来る前のことを、ほんの少しだけ覚えている。今の何十倍もの広さで、壁も床も真っ青だった。ぼくらの頭上では丸くて白い大きなものがすべるように動いていて、ぼくたちを追い回した。その前は、ぼくはどこにいたんだろう。どうしてここに来てしまったんだろう。そのへんのことは、全然覚えていないんだ。忘れたほうが都合がいいからなんだろうね。きっと嫌なことがあったんだろう。

 1日に2回、上から食べ物が降ってくる。おなかがすいて待ちきれなくて、その気配を感じると、ぼくは頭がしびれたようになって、勝手に体が動いてしまう。みっともないけど、必死に口をあけて、食べ物をとらえようとするんだ。そのときはもう、何も考えられない。それが恥ずかしいと感じることもできない。ただただ夢中で、あとでふと我にかえって、すごくみじめな気持ちになるんだ。

 でもさ、何も起こらない単調な毎日のなかで、たったひとつのイベントがごはんの時間なんだ。そりゃあ夢中になってしまうよ。そのときだけは一生懸命体を動かして、もっとごはんをくださいってアピールするんだ。

 ごはんをくれるのは、大きな体をした怪物だ。ぼくの何百倍、それよりもっと大きいかもしれない。ぼくの体に触れようとはしないし、ごはんの時以外は、ガラスの向こうからときどきじいっと覗き込むだけだ。きっと悪者ではないんだと思う。それでもぼくは、彼のことが怖いんだ。彼の機嫌をそこねたら、ぼくはご飯を食べられなくて死んでしまうかもしれないからね。だからなるべく、おなかがすいてることをアピールしなくちゃいけないわけだ。みじめな気分だけど、生きて行くためには仕方ない。

 おなかがいっぱいになったら、糞をしぼり出す。部屋の中が汚れてしまうけど、こればっかりはどうしようもない。おしりに糞をぶら下げたまま、ぼくはきっと間抜けな顔をしているんだろう。恥ずかしさやむなしさを通り越して、このときにはもう、何も考えられなくなっている。考えてしまったら、きっと生きてはいけないだろうから。



 ここに来てから、どのくらいの時間がたっただろう。いつものようにぼんやり動き回っていたら、何かが弾けるような音が上のほうから聞こえて、振り向いたらたくさんの泡が視界を覆っていた。しばらくして泡が消えると、そこにははじめてこの世界で出会う、ぼくと同じ姿をした仲間がいた。女の子だった。

「あの、こんにちわ」
 おそるおそる話かけると、彼女はぷいっと顔をそむけて、向こうへ行ってしまった。向こうといっても狭い部屋だから、すぐにまたぼくと向き合うことになるんだけれど。それでもようやくできた仲間に無視されたのは、かなり哀しかった。

 彼女はぼくと同じでまっ赤な体をしていたけど、首のまわりだけが白かった。オシャレな子だな、と思った。ぼくみたいにどんくさくて気がきかないやつは嫌いなんだろうか、それから3日くらいは口もきいてもらえなかった。

 ごはんの時間になっても、彼女はぼくみたいにみっともなく口をあけて上を向くこともなく、ずいぶん淡々としていた。2人しかいないからごはんを巡って争う必要もないんだけど、どうしてそんなに平静でいられるのか、ぼくは不思議だった。育ちが違うんだろうか。彼女の立ち居振る舞いを見ていると、自分はすごく卑しいんだなと思わずにはいられなかった。

「狭いわね、ここは」
 それが彼女が一番最初に発した言葉だった。急だったのでちゃんと聞き取れなくて、もう一回言ってもらった。彼女は不機嫌そうに、ここは狭いと言った。
「君がいたところはもっと広かったの?」
「わからない。覚えていないの。ただ、こんなに狭いところではなかったと思う」

 ああ、彼女もぼくと同じなんだ。自分がどこにいたのか、思い出せないんだ。でも、それを知っていたからどうなるというんだろう。どんなに素敵な過去があったとしても、ぼくたちの今は変わらない。それだったら、思い出なんてないほうが幸せなんじゃないだろうか。

「ねぇ、私たち、ずっとここから出してもらえないのかな」
 彼女は哀しそうな目をして、そう言った。きっとぼくより頭がいいんだろうな。だからこの世界に、すぐに嫌気がさしてしまったんだろう。ぼくみたいなどんくさいやつと一緒にいるのが嫌なのかもしれない。

 分からないって答えると、彼女は残念そうにぼくをじっと見て、それから向こうへ行ってしまった。やっぱり嫌われてしまったんだろうな。ぼくは不甲斐ないから。

 それでもぼくは、仲間ができてうれしかった。友達とはいえないかもしれないけれど、一人でいるよりはよっぽど幸せだ。たまにしか返事をしてくれなくても、困ったときに話しかける相手がいるというのは、これはすごくありがたいことなんだ。



 あるときあの大きな怪物が、ごはんの時間でもないのにやってきて、じっとぼくらを見つめていた。ぼくはもう慣れっこだったけど、彼女は怯えて逃げ回っていた。狭い部屋だからどこにも逃げようがないんだけど、そうせずにはいられなかったんだろう。

 突然怪物が部屋のなかに手を突っ込んで、彼女の体をわしづかみにした。彼女は金切り声をあげて、なんとか逃げ出そうと暴れ回ったけど駄目だった。ぼくも必死で彼女を助けようとして、何度も怪物の手に体当たりをしたけど……大きさが違いすぎて、何の効果もなかった。彼女はそのまま持ち上げられて、部屋の外へ連れて行かれてしまった。

 彼女はどうなってしまうんだろう。殺されてしまうんだろうか。それとも食べられてしまうの? 考えれば考えるほど哀しい気持ちがふくらんで、胸が張り裂けそうだった。でも、それも束の間だった。ほとんど間を置かずに、怪物の手がぼくの体をつかんで持っていってしまったから。

 心臓が止まるかと思った。目がぐるぐるまわって、どっちが上でどっちが下なのかも分からなかった。外の世界がどうなってるのか、確かめる暇さえなかった。気が付いたらぼくは、今までよりもっと狭い部屋に閉じ込められていた。

 彼女も一緒だった。それだけが救いだった。不安そうな彼女を見たら、目が回っていたことなんて忘れてしまった。

「大丈夫? 怪我はなかった?」
 そう聞くと、
「大丈夫だけど……私たち、どうなっちゃうの?」
 と、彼女は怯えて肩を震わせた。

 ガラス越しに怪物の姿を見ると、奴はぼくたちが住んでいたガラスの部屋をひっくり返していた。なんてことをするんだろう! あれだけ逃げ出したいと思っていたのに、自分が少しの間とはいえ過ごしていた場所を台無しにされるような気がしてひどく気分が悪かった。

「やっぱり私たち、殺されちゃうのかな」
 彼女はそう言って、そんなの嫌だと涙ぐんだ。ぼくだって、このまま死にたくなんてない。彼女が死んでしまうのも嫌だ。なんとかして守ってやりたい。けれど、ぼくと怪物ではあまりにも大きさが違うし、どうやったらここから出られるのかもわからない。ぼくは自分の無力さに絶望しながら、黙って見ていることしかできなかった。

 こういうときに限って、時間がたつのがずいぶんゆっくりに感じられる。行き着く結末は同じはずなのだから、いっそ早送りで時間が流れていけばいいのに。神様はこういうときに残酷だと思う。心臓の鼓動が聞こえてきそうなくらい、ぼくらは息を詰めて怪物の背中を見つめていた。

「ねえ」
 ぼくが目を血走らせて周囲を警戒していると、彼女が不意につぶやいた。
「さっき、私のことを助けようとしてくれたんだよね」
「あぁ、夢中だったからよく分からないんだ。ごめんね、役立たずで」
 ぼくが謝ると、彼女はいっそう悲しそうな顔をした。どうして謝るのかと問いたげだったけど、結局それっきり何も言わず、ガラスの向こうを見つめていた。

 やがて怪物が近づいてきて、今度はガラスの小部屋ごと、宙に持ち上げられた。このまま地面に叩き付けられるんじゃないかと目を閉じていたら、激しい音とともにぼくの体はたくさんの泡に囲まれた。あぶくのつぶてが次々にからだに当たって弾けて行った。そうしてまわりが落ち着いていくと、ぼくたちは元の部屋に戻されたことがわかった。こころなしか、ガラスがきれいになったような気がする。緊張のせいで息が苦しかったけど、なんとなく過ごしやすくなったような気がする。

 それでもぼくらは、何が次に起こるのか分からなくて、身を寄せ合って震えていた。怪物がいなくなってしまうまで、ぼくはずっと肩をいからせて、なんとか彼女を守ろうとしていた。

 この奇妙な儀式は、その後も定期的に行われた。何の前触れもなく、ぼくらは狭い部屋に移されて、その間に怪物はガラスの部屋をきれいにしていくらしい。それを思うともしかしたらいいやつなのかもしれないけど、あまりにもやつは大きくて、たとえ親切心であったとしてもぼくらの寿命を縮めることにしかならなかった。

 彼女は決して打ち解けてはくれなかったけど、このときを境にぼくを頼ってくれるようになった。彼女はたとえごはんの時間であっても、怪物が近づいてくるとパニックに陥って逃げ回った。彼女を慰めて、勇気づけるのがぼくの役割だった。

 一人でいるときは退屈で仕方なかったけど、こうしてぼくには、ごはん以外にもやるべきことができた。怠惰な時間は相変わらず多いけど、やるべきことが分かっていれば、時間がたつのも早く感じられる。どのくらい自分が生きられるのか分からなくても、とにかく彼女のために生きようとぼくは誓った。

見張り塔の上から

 その塔からは、はるか地平の先までも見通すことができた。高い建物など他に何ひとつないこの村で、塔の影は長々と横たわり、太陽の動きとともに円を描くように大地をすべっていった。

 アムギがこの見張り塔のうえで暮らすようになってから、どれくらいの年月が流れただろうか。彼は毎日、この村に敵が攻め込んでこないか見張り続けていた。塔の上には鐘が据え付けてあり、外敵を発見したらいちはやく鐘を叩いて下の村人たちに知らせ、迎え撃つ準備をさせることになっていた。そのために、彼は誰かと交代することもなく、昼夜の別なく塔の上に座り続けていた。

 一日中遠方に注意を払っているわけではない。毎日睡眠はとっていたし、空想の世界で遊ぶこともあった。長い監視生活の末に、アムギは物思いに耽りながらも風景の変化を視界のすみにとらえる術を手にしていた。眠りながらも大気の振動を感じ、外界の変化を察知する術を身につけていた。

 この見張り塔は、アムギがひとりで立てたものだった。村人たちは、彼を狂人扱いした。見張り塔など必要ないのだと、誰もが異をとなえた。そもそもアムギが考えているような高さの建物など誰も見たことさえなく、どうやってつくるのか想像もつかなかったのだ。

 道具はどうするのか、材料はどうするのか。村のまわりには平坦な草地が広がっており、木材や岩石を集めるだけでも気の遠くなるような月日を要するだろう。

 それでもアムギはかたくなだった。手を貸すものが誰もいないなら、自分ひとりで建ててみせよう。そのかわり、見張り塔の上には自分以外の何者も、立ち入ってはならない。この村を外敵から守るのは自分でなくてはならない。アムギは強く主張し、やがて建設に取りかかった。

 その作業がどれだけ大変だったか、どれだけの時間を必要としたか、アムギはもう覚えていない。建設中も、建設後も、彼の頭にあるのは失った家族の思い出だけだった。

 

 村が外敵の侵入を許したのは、アムギが30歳を過ぎたころだった。彼には妻と2人の子どもがおり、老いた両親もともに暮らしていた。

 それまでは、争いごとなどとはまったく縁のない平和な村だった。暴力を振るうものもなく、理不尽を押し付けるものもなく、皆おだやかで誠実だった。命というものを慈しみ、年長者を敬い、家族を大切にするものばかりだった。

 それが、たった数時間で踏みにじられた。

 太陽が沈みかけたころだった。遠くから、天にのぼるような土煙があがっていた。徐々にそれは地響きを伴い、村に近づいてきた。

 気づいたときには、既に遅かった。自分たちの土地を持たない凶暴な騎馬民族たちは、あっという間にあらわれて、あっという間に去っていった。後に残ったのはおびただしい屍と、炎に包まれた家々だった。

 女と子どもは、皆つれていかれた。生き残ったのはアムギを含めてごくわずかだった。アムギの妻は馬に乗せられるのを拒み、子どもたちを守ろうとした。力なき抵抗はただただ無力で、彼女は子どもを守ることもできず、命を失うこととなった。アムギの両親はどちらも胸から血を流し、倒れていた。

 何もできなかった。戦うことを知らぬアムギたちは、ただ震え上がって暴虐の限りを見るだけだった。勇を鼓して立ち上がったものたちは、結局何もできずに命を失うだけだった。

 まるで一陣の風が駆け抜けたようだった。アムギたちは声もなく、涙さえも出なかった。聞こえてくるのは、炎が村を焼く音だけだった。

 後悔は日ごとに募っていった。生き残ってしまったことを恥じて、みずから命を絶つものもいた。村を捨てて旅立つものもいた。数えきれないほどの遺体を埋葬したあとで、残されたものは悲しみだけだった。

 アムギはこのときの恐怖で、声を失っていた。遠くまで響く自慢の歌声を聞かせる相手もいなく、彼は沈黙の世界の住人となった。

 もっと早くに気づいていれば、外敵に立ち向かうことができたかもしれない。アムギはずっとそう考えていた。家族を逃がすこともできたかもしれない。立ち向かう勇気を振り絞ることもできたかもしれない。何をどうしたって失われたものはかえってこないが、何かをしなければ、心が引き裂かれてしまいそうだった。

 そうして、アムギはたった一人で見張り塔を建てることを決意した。誰もがアムギをあざ笑ったが、もう彼の目には、目的以外はうつらなかった。村を守ろうというのではなく、家族を奪っていった外敵に復讐しようというのでもなく、見張り塔を建てることで、自分が救われるような気がしたのだった。

 神の視座を手にしたとき、季節は秋だった。かわいた風は地上よりも激しく、見張り塔を頼りなく揺らした。見張り塔の上は狭く、寒かった。アムギは膝を抱えて座り込んで、節々の痛みをこらえながら地平の向こうに思いをはせた。

 

 そこからは代わり映えのない毎日だった。昼がきて、夜がきて、朝がきた。アムギは目を覚ますとまず四方に変化がないかを確認し、何事もないようであれば、心のなかで亡き妻と対話した。

「キグン、また朝がきた。ツルムとサブニは元気にしているか? もっとこの塔を高くすれば、お前たちの姿を見ることができたかもしれないな。この場所よりはるか上に広がる雲のもっと上に、お前たちはいるんだろうな」

 アムギが声を失ったのは、こうして心のなかで家族に語りかけるようになったせいかもしれない。彼のなかで、妻と子どもたちは生き続けていた。そして彼は、遠くを見つめながらも過去に生きるようになった。

 やがて冬がきた。寒風は容赦なく吹き付けて、見張り塔をきしませた。雪は音もなく降り積もり、アムギの体をこわばらせた。しかしアムギはかたくなに、その場を離れなかった。春がきて、夏がきて、季節が巡っていっても、アムギは変わることなくおのれの持ち場を守り続けた。

 どこからさまよい込んできたものか、見張り塔の上にはやがて小鳥が巣をつくり、ひな鳥が声をあげるようになった。親鳥の糞に混じっていた種子が芽をだして、小さな花を咲かせるようになった。アムギはかつて妻のためにつくってやった花飾りを思い出し、ここの草花がもっと増えたら、妻や子どものために何かをつくろうと考えた。

 村人が見張り塔を登ってやってくることは一度もなかった。アムギは完全にひとりだった。もう歩き回る必要もなかったし、誰かに気をつかうこともなかった。アムギは巌のように、動くことも喋ることもしなかった。

 雷鳴が轟く日には、アムギは激しい雨に打たれながら家族のことを思った。

「キグン、哀しいのか? 怒っているのか? 俺も早くお前たちのところに行きたいと願っているが、かといってこの村を捨てるわけにもいかないのだ。どうか分かってほしい」

 そうしてアムギは不自由な体を懸命に折り畳み、額を床に押し付けて天に祈った。濡れそぼった体は熱を失い、間断なく震えていた。雷は見張り塔を打つことなく、遠ざかっていった。アムギは天に感謝して、妻の慈愛をよろこんだ。

 親鳥からえさを与えられるばかりだったひな鳥たちは、少しずつ成長し、巣立ちのときを迎えた。アムギが見守るなかで、一羽また一羽と、はじめての飛翔に挑んでいった。彼らは翼を広げ、風を切り、天高く駆け上がっていった。どうか自分の思いを妻たちに届けてほしいと、アムギは願った。

 一羽だけ、いつまでたっても巣立ちができないひな鳥がいた。生まれつき障害を持っていたのか、翼を広げることさえできない様子だった。

 親鳥や兄弟鳥たちは、この不自由な一羽のために、餌を運んできた。仲睦まじい家族だった。もはやアムギにはこの鳥たちを食べようという気持ちなどなく、彼らの営みに心慰められる日々が続いた。

 

 夏が終わりを迎えようとしていた。相変わらず四囲の景色に変わりはなかったが、見張り塔の上の小さな世界には、ひとつの変化が生まれていた。

 あれほど仲のよかった鳥たちが、争いをはじめたのだ。争いというよりは、一方的な暴力だった。痛めつけられていたのは、あの不自由な、飛べない鳥だった。

 アムギは彼を守ることをせずに、じっとこの虐待を見守っていた。なぜあんなに仲の良かった家族が、こんなことになってしまったのか。なぜこの飛べない鳥は、暴力にさらされながら、されるがままになっているのか。アムギの手のひらに乗るような小さな体にもかかわらず、彼らは何らかの意志と理不尽を抱えている。それがアムギには不思議だった。

 暴力も、そう長くは続かなかった。体の大きな親鳥が、不自由な一羽の首元をくわえて、外に放り投げたのだ。小さな体は翼を広げることもできず、重力のとりこになった。風に乗ることもなく、日差しの熱を羽にたくわえることもなく、一直線に落ちていった。

 するとこの鳥の家族は、一斉に飛び立っていった。落ちていく仲間を見届けることもせず、太陽に向かって羽ばたいていった。後にはからっぽの巣だけが残った。アムギはまた、孤独をかかえて過ごすようになった。

 一本だけ残された親鳥の羽を、アムギは髪にさした。かつて妻が、鳥の羽で装飾具をつくっていたことを思い出したのだった。

「キグンよ、俺にも翼があれば、お前たちのところへ飛んでいけるのだが……。俺にも翼があれば、ツルムとサブニを羽毛で抱きしめて、これからやって来るであろう寒さから守ってやれるのだが……。俺にはまだ、何もできないのだな」

 沈む夏の陽をじっと見つめながら、アムギは赤く染まった空の向こうに家族の顔を思い描いた。

 秋は寂しい季節だった。鳥たちが去り、夏の暑さが遠ざかってしまうと、何の変化もない日々が続いた。地上では木々が色づき、収穫に皆心を躍らせていただろう。しかしアムギが暮らすこの場所は、そのような変化とはまったく縁がなかった。太陽がのぼり、世界を真っ赤に染めて沈んでいく。そのあとには月がのぼり、深い夜空に星々を散らす。秋はそれだけだった。それだけが延々と続いていった。

 そうしてまた冬がやってきて、季節はくるくると巡っていった。冬に枯れてしまった草花も、春になればまた芽を出して、小さく可憐な花を咲かせた。暖かくなれば渡り鳥がやってきて、歌いながら巣をつくった。そんな巡りのなかで、アムギは変わらず家族のことを思いながら、地平の果てを見つめていた。

 

 どれだけの歳月が流れただろうか。周囲には相変わらず何もなく、地平線まで延々と草原が広がり、空は果てもなく青かった。ある日の午後、ついにアムギは異変を感じ取った。はるか彼方から、何かが近づいてくる。土煙は竜巻のように天に向かって駆け上がり、そのうねりの真下を、大地を轟かせながら駆ける騎馬の一群が目に入った。

 ついに来るべきときが来たかと、アムギは生唾を飲み込んだ。かつてこの村で行われた略奪を思い出し、アムギはかわいそうな家族のことを思った。

 鐘を叩く棒を手に取ると、アムギはあらためて亡き家族に思いを馳せた。

「キグンよ、ついにこの日が来た。お前たちを失ってから、俺はずっと、この日が来るのを待っていたのかもしれない。この鐘をたたけば、村の者たちがすぐに迎え撃つ準備を始めるだろう。決してあのときのようにはさせるまい。二度と同じ過ちはおかさないから、どうか俺たちの戦いを見守っていてくれ」

 アムギは目を閉じて、妻に語りかけた。あの日から時間が止まってしまった妻の面影は、若く美しいままだった。両脇には子どもたちが恥ずかしそうに立っていた。父親と面と向かって接するのに慣れていないのだろう。教えてやりたいことはたくさんあったのに、不憫なことをしてしまった。

 今は過去を振り返るときではない。アムギはそう決心し、長い間出番を待ち続けていた鉄製の鐘をたたいた。最初は探るように小さな音だったが、その音は徐々に大きくなり、鐘をたたく腕の振りも激しくなっていった。

 鐘の音はあたり一帯に響いた。鼓膜をやられてしまったものか、アムギにはもう、何も聞こえなかった。近づいてくる騎馬民族の足音も、地響きも、耳で感じることはできなくなっていた。

 しかしもう、これでアムギは役目を果たしたのだ。あとは村の人間たちがどうにかしてくれるはずだ。アムギは鐘から目を離し、押し寄せる騎馬民族に視線を転じた。

 なんという勢いだろう。大地は彼らのために揺れ、空気は彼らのために熱を増していくように思えた。日がかげり、太陽が姿を消しても、土煙は陽炎のように燃え上がった。

 アムギはこのとき、死を覚悟していた。塔の上にいる自分は、格好の的になるだろう。矢の雨が降り注ぐかもしれない。炎に巻かれて塔が倒されるかもしれない。しかしそれでもいいとアムギは思っていた。自分にできることはすべて終えたのだ。このまま家族が待っているところへ行くのも悪くはない。

「キグンよ、もう少しだ。もう少しで、俺はお前のところに行けるだろう。ツルムとサブニにもう一度会えるのだ。こんなにうれしいことはない」

 アムギは大きく息を吸い込んで、もう一度力強く鐘を叩いた。

 甲高い金属音は、草原を駆けて騎馬民族のもとまで届いただろう。空気を切り裂いて、狂ったように目を見開いて駆ける馬たちに響いただろう。その背にまたがり下卑た笑いを浮かべる敵どもの耳を貫いただろう。

 これでアムギの居場所も、明らかになってしまった。逃げることはかなわない。村が蹂躙されれば、アムギも生きてはいられないだろう。それでいいのだと、アムギは自身を納得させた。ここで死ぬことこそが、ずっと一人で生きてきたアムギの希望となっていた。

 少しずつ、騎馬民族の姿が鮮明になってきた。村人たちはもう準備を終えたのだろうか。見張り塔の上で暮らすようになってから、彼らとはまったく関わりをもたない。お互いに姿を見たこともない。武器を手に立ち上がった勇敢な男たちのことを想像し、アムギはすぐに始まるであろう戦いのことを思った。

 天にのぼる煙はどんどん濃くなり、襞のようなうねりを肉眼ではっきりととらえられるまでに近づいていた。鐘をついたときに耳を悪くしていなければ、馬のいななきや地響きが聞こえてきただろう。まばたきをするたびに、敵は一足飛びに近づいてきた。見張り塔もその熱気にあおられてかすかに揺れているようだった。

 村人たちの動きはまだ感じられない。アムギはそれを不審に思ったが、確かめるすべはなかった。今更見張り塔を降りることなどできないのだ。狭い場所で長いあいだ不自由をかこっていたせいで、アムギの体は衰弱しきっていた。立ち上がることさえおぼつかず、ましてや声を張り上げて合図を送ることなどできるはずもなかった。

 直前まで敵を引きつけるつもりなのだろうか。傾きかけた太陽が見張り塔の影を伸ばし、その先端を騎馬民族の先頭が踏みつけても、村からは誰も出てはこなかった。荒ぶる馬たちがどれだけ村に近づいても、武器を手に立ちはだかるものはなかった。

 結局みな、恐怖に負けて動けずにいるのだろうか。だとすれば、自分が今まで見張ってきたことは何の意味もないではないか。

 かといって塔を降りることもできず、声をあげて叱咤することもできず、アムギは煩悶しながら来るべきときを待つことしかできなかった。

 この命がここで果てるにしても、せめて何人かは道連れにしてやろうと、アムギは固まった関節を無理に伸ばして膝建ちになり、柱にくくりつけられていた鐘を取り外した。風雨にさらされてずいぶん薄汚れてしまったが、重みだけは昔と変わらなかった。大事に鐘を抱えながら、アムギはもう一度、鐘を叩いて鳴らした。今度は鈍い音が反響するだけだった。

 アムギはあきらめて目を閉じた。きっとこれまでの鐘の音も、下までは届かなかったのだろう。何のために今まで懸命に見張りを続けていたのか、それを思うと口惜しくてならなかった。

 そうするうちに、騎馬民族はもう目と鼻の先まで近づいていた。彼らは縦に列を成して、大地を裂かんばかりに土煙を巻き上げて疾走していた。とても迷いなど感じられず、彼らにとって殺戮と略奪は何ら心の痛むことではないのだと思い知らされた。

 彼らは速度を緩めることなく、そのまま村に飛び込んでいった。アムギは目を閉じて、抱えていた鐘を真下に放り投げた。シュルシュルと音を立てながら、鐘は馬上の敵に向かって落下していった。

 しかし鐘は、誰にかすることもなく地面にぶつかって、跳ね転がっていった。これで上に人がいることは気づかれてしまったはずだ。一斉に矢が打ち込まれ、自分は命を失うのだろう。それでもいいと思い、アムギは天を見上げた。

 

 村人たちは勇敢に戦っているだろうか。塔のまわりは血に染まっているだろうか。アムギは空を見つめながら、はるか真下で繰り広げられているであろう戦いを思った。結局村人たちの力になれなかったことを呪い、しかしもうすぐ潔く死ねるのだという思いが快楽のように胸を満たし、下の世界とアムギとを切り離していた。

 見張り塔の反対側にいざり寄り、アムギは再び眼下を見た。そこには、何の混沌もなかった。騎馬民族たちは来たときと同じ速度で、村を駆け抜けていった。誰一人立ち止まることなく、まるで何事もなかったかのように悪意が通り過ぎていった。

 抵抗するものも、命を失うものも見当たらなかった。村人の姿はどこにもなかった。アムギは鐘を叩くための棒を拾い上げ、真下の敵に投げつけた。

 確かに棒は、敵の頭にぶつかった。しかしそれは影にぶつかったかのように、はじかれることもなく敵の体に吸い込まれていき、地面に転がった。アムギは手当り次第に身の回りのものを放り投げたが、何度やっても同じことの繰り返しだった。アムギの投げたものは、敵の体を通り過ぎていくだけだった。

 アムギは自分の手を見た。節くれ立った長い指は半透明で、景色が透けて見えた。指だけではなく、腕もそうだった。そして手と手を合わせようとしても、すれ違うばかりだった。右手と左手の指が触れ合うことはなく、何度やっても感触をつかむことはできなかった。

 疑念が膨らむたびに、アムギの体は透き通っていった。涙は流砂となり、足下に小さな山をつくった。いつの間にか沈みかかった太陽は、アムギの胸を透かして光を地面に届けた。少しずつ気が遠くなっていくなかで、アムギはもう一度眼下を見た。

 騎馬民族は、もう残りわずかだった。そのすべてが、立ち止まることなく村を通り抜けていった。

 よく見れば、彼らは兵士だけでなく、馬の後ろに女子どもを連れていた。最後尾の男も同じで、家族を連れて移動しているようだった。

 最後の男は塔の下を通過して少し離れると、振り返って上を見た。アムギは彼の目を見た。気づいているのか気づいていないのかは分からないが、彼はじっと、塔の上を見やっていた。

 やがて男は背袋から取り出した弓矢を構え、弦を引き絞った。
 一瞬にして、矢は男の手から放たれた。するどいうなりをあげて、矢は塔に吸い込まれていった。上まで届くことはなく、塔の中ほどに突き刺さった。矢は燃え上がり、灰となって消えた。

 アムギはその一部始終を見守ると、胸をおさえて後ずさった。透明な胸から、赤い血が流れ出していた。血はあふれた先から砂にかわり、とめどなくこぼれ落ちていった。

 蜃気楼のように、アムギはそこにたたずんでいた。自分の体が消えていくのが分かった。意識ははっきりしているのに、体の感覚が失われていく。胸にあいた穴を押さえ、アムギはひざまずいた。

 誰もいないのだ。

 いや、誰もいなかったのだ。

 ようやくアムギは、そのことを思い知った。誰もいない村を、アムギは守り続けていたのだ。やがて現実と空想の境はなくなり、アムギは思い出に生きるようになった。気の遠くなるような歳月を、アムギは一人で無意味に過ごしていた。

 いつから俺の体はこんな風になっていたのだろう。透明で、実体がない。それは死んでいるのと同じことだった。

 矢を放った男は、馬からおりて塔を見上げていた。

 男ではなかった。いつの間にか髪が伸びており、衣服も女性のそれへと変わっていた。馬の姿も消え去り、両脇に幼子を連れていた。

「キグン……」

 アムギは中空に手を伸ばしてうめいた。砂の涙はサラサラと流れ落ち、糸のように大地に吸い込まれていった。アムギがその場にくずおれると、見張り塔は矢を受けた部分から崩れだし、灰となって宙にあふれた。まるで霧のようにあたりを包み込み、落日の光を受けて黄金色に染まった。

 足下が崩れ、アムギは大地へと落ちていった。すでにアムギの実体はなかったが、黄金の霧をかき分けて、愛しい者たちのもとへと吸い込まれていった。

 もはや見張り塔は跡形もなく、あとには果てしない草原が広がるだけだった。夕闇のなかで白い花々が咲き群れて、金の風にそよいでいた。

水遊び

 うだるような、暑い夏の午後だった。直子がウチワで涼をとっていると、玄関のベルが鳴った。ずいぶんせっかちな鳴らし方に感じられた。少なくとも近所の住人たちは、このような鳴らし方をしない。

 宅配便かと思い、重い腰をあげて玄関をあけると、そこに立っていたのは鼠色の塊だった。かすかに震えながら異臭を放つその塊の、ちょうど直子の腰くらいの高さに、涙にぬれる瞳がついていた。

「良一ったら……またやったの」
 思わず直子が咎めると、良一は上目遣いで母親の顔を覗き込んだあと、すぐに視線を足元に転じてしまった。涙を見られたくないのだ。うつむいて涙をこらえる両肩が、結局は制しきれずわなないていた。

 鼠色の塊は、直子の一人息子の良一だった。学校からの帰り道、用水路に落ちたのだ。用水路といっても、汚泥がぬかるむどぶ川のようなものだ。横幅が1メートルほどあり、子どもたちの度胸試しの格好の舞台となっていた。小学校低学年の子どもが、立ち幅跳びで飛び越えられるかどうかという絶妙な幅なのだ。普通に飛べばまず落ちることなどないが、ちょっとでも怖じ気づいてしまうとひどい目にあう。春先頃から、むき出しのままでは危険だから蓋をするようにと町内会で声があがっていた。

 度胸試しをしようと友達に誘われて断りきれなかったのだろうか。もしかしたらいじめられているのかもしれない。しかし良一は、一人で歩いていてもどぶにはまるような子どもだ。よそ見をしながら歩いていて、うっかり落っこちてしまったのかもしれない。見たところ、どこも怪我はしていないらしい。特に痛いところもなさそうだった。

 「水かけてあげるから、そこで服を脱いじゃいなさい」
 良一は心細そうに「うん」と答えると、小さな声で「ごめんなさい」と付け加えた。

 服を脱いだ良一を裸で庭に立たせると、直子はホースで、水をかけてやった。夏の暑さが、水煙に溶けていく。良一の体も、みるみるうちに汚れが落ちていく。

 さっきまでの気怠さが嘘のようだった。キレイ好きの直子にとって、平気で泥だらけになって帰ってくる息子に怒りを覚えることもあるが、それをキレイに洗い流してやることにたとえようのない愛おしさを感じるのだった。

 背中を洗い終えてこちらを向かせると、良一はまた上目遣いに直子を見て、目を伏せた。それを何度も繰り返した。

 ああ、この子も楽しくなってしまったのだと、直子は思った。けれど悪いことをしたから、笑うべきではないと考えているのだろう。いじらしさとわずらわしさがないまぜになって、直子はホースの先端を細めて水圧を強めた。放たれた水鉄砲が、良一の胸ではじける。おさない笑い声が、夏空に吸い込まれていった。

釈迦と阿修羅

 一

 

 「罪深い」という言葉があるが、罪の深さは地獄の深さに直結する。東洋では大きく8つに分かれ、これを八大地獄、あるいは八熱地獄などと呼ぶ。

 地獄では永遠に責め苦が続くわけではないが、蚊を殺した程度の罪でさえ、許されるまでに1兆6653億1250万年もの歳月を要するという。これは八大地獄のなかでは最も楽な、等活地獄における話である。カンダタが落ちたのは八大地獄のうち5番目の階層にあたる大叫喚地獄あたりであろうから、6821兆1200億年は苦しまねばならぬ。

 考えてもみるがいい。6821兆1200億年分の罪人が、この地獄の一画に集められているのだ。仮に世界中から、大罪人が年に100人ここに落ちてきたとしたら。もはやケタは兆にとどまらぬ。日常生活ではまず使われぬ、「京」という単位にまで達するのである。

 カンダタがどのくらいの時間を地獄で過ごしてきたかなど、お釈迦様には知るよしもない。蓮池をのぞき見たら、どこかで見た顔があった。極悪人には違いないが、たしか蜘蛛を助けたことがあったはずだ。ならば蜘蛛の糸を垂らして救い出してやろう。慈悲といえば聞こえはいいが、どんな悪人にだって虫を助ける程度の心温まるエピソードはあるものだ。たまたまカンダタの運が良かったに過ぎぬ。お釈迦様の気まぐれに過ぎぬ。

 カンダタは天から垂らされた糸に気づき、脱出を試みた。心躍るような気持だったであろう。数千兆年をひとっ飛びに飛び越えて、あわよくば極楽の住人になれるかもしれないのである。

 しかし事はそう甘くない。糸を登るのに疲れたカンダタが下を見ると、数えきれぬほどの罪人が彼を追っていた。はるか下方に豆粒のように小さく見える程度だったから追い越されることはまずないが、カンダタが恐れたのは糸が切れることであった。自分ひとりを支えるのさえ頼りない、細い糸だ。このままでは切れてしまうに違いない。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いて登って来た。下りろ。下りろ」カンダタが大声で喚いたのも無理はない。

 しかしこのとき、お釈迦様は別の心配をしていた。蜘蛛の糸は絶対に切れないのだ。金剛王宝剣でも切れなかった。カルラの炎にも溶けずに残った。そもそもこの程度で切れるくらいなら、はなから地獄に垂らしたりなどしないのだ。

莫迦者め……」

 お釈迦様がつぶやいたとき、極楽が微かに揺れた。6821兆1200億年×100人、少なく見積もっても682京1120兆人の重みが、蜘蛛の糸の一点に集中しているのである。極楽は徐々に、地獄に引き寄せられている。

カルネアデスの板」という哲学問題がある。舟が難破し、放り出された海で板切れにすがりついた船員がいた。安堵もつかの間、気づけば別の船員が同じ板につかまろうとしている。この薄っぺらい板が2人の重みに耐えられるとはとても思えない。後から来た船員を突き飛ばして、自分ひとりが助かろうとするのは果たして罪であろうか。

 刑法でいうところの緊急避難ととらえれば、罪には問われないだろう。しかしカンダタの場合、自分が助かるために突き飛ばそうとした相手は一人ではない。自分ひとりが助かるために、天文学的数字の罪人たちを足蹴にするのは許されるだろうか。

 このように、「カルネアデスの板」を「蜘蛛の糸」に置き換えて考える人は意外に多い。しかし真に罪に問われるべきはカンダタなのか。結果的に、カンダタは数多の罪人を道連れに、再び地獄に転落していった。だがよくよく考えてみれば、カンダタ自ら蜘蛛の糸を切ったわけではないのだ。罪人たちの重みに耐えかねて極楽が地獄に堕ちるのを恐れて、あるいは京兆にのぼる罪人たちが極楽を蹂躙することを恐れて、お釈迦様が手をかけたのである。

「許せ」

 お釈迦様が告げた相手はカンダタではなく、その下に連なる罪人たちでもなかった。視線の先には蜘蛛がいた。糸を切ることができぬなら、蜘蛛もろとも、糸を地獄に落すしかないのである。お釈迦様が手を払うのが先か、蜘蛛がみずから身を投げるのが先か分からなかった。お釈迦様の視線の先には、奈落の底へと吸い込まれて行く蜘蛛の姿があった。

 

 

 二

 

「つまり等活地獄っすねー」

 邏卒の牛頭馬頭にとらえられてうなだれるお釈迦様の前に、阿修羅が立っていた。

「お釈迦様ともあろうお方がねぇ。蜘蛛を助けたカンダタを助けようとして、結局蜘蛛もろとも地獄に落しちゃうなんて洒落になんないっすよ」

「じゃあ何か、極楽が消えてなくなっても仕方ないというのか」

 お釈迦様が恨めしそうに問うと、阿修羅はあわてて「いやいやいや、それ言うと話がややこしくなるんで! どっちにしても殺生しちゃったのは事実なんだから、そこから考えていきましょうよ」と言った。

 まさか阿修羅が自分の弁護人になるとは思わなかった。今ではイケメンだなんだと巷の女子にキャーキャー言われているが、こいつだって元をただせば暴力好きのクソヤンキーなのである。帝釈天に毎度喧嘩を売っては返り討ちにあっていたというのは、極楽では有名な話である。

「だいたいお前、閻魔の前で反論なんてできるの? 私の弁護なんてできるの?」

「だーいじょうぶ。逆転裁判で練習してますから。異議あり! って言えばいいんでしょ?」

 頭が痛くなってきた。腕力にものを言わせてのし上がって来たこいつに期待すべきではないのだ。そもそも、悪党で知られた阿修羅を導いたのは他の誰でもない、お釈迦様自身であった。彼の説法が、阿修羅を改心させたのである。よくよく考えてみればこいつもカンダタも大差ない。

「あの日のお釈迦様の説法、俺いまでも忘れられねーんす。俺もあっちこっちでストリート説法やってるんすけど、莫迦だからすぐヤベーだのパネーだの言っちゃうし。でも今度はまじヤベーっすから。聞いてくださいよ、俺の説法!」

 それを釈迦に説法というんだよ。喉元まで出かかったが我慢した。「相変わらずうまいっすねー」とか言われそうで癪なのだ。釈迦だけに。あぁ、自分もちょっとおかしくなってきている。

「そもそもさ、なんで弁護人がお前なの。大日如来あたりが良かったよ。あいつ物知りだし」

「大日様は羅生門が藪の中で大変だとかで出張中なんですよ」

「まだ解決してなかったのか。2つまとめるからややこしくなるんじゃないのかね」

「いや、黒澤なんとかいうやつが真相を突き止めたはずだったんですけど、河童が足をひっぱってるみたいで」

 なんだか鼻がむずむずする話である。タッタが悪さをしているのかもしれない。

「弥勒はどうした。他力救済といえば弥勒だろう」

「あいかわらず須弥山にこもってるみたいで、56億年待った甲斐があったとか喜んでるらしいっす。あいつ下克上狙ってますよきっと」

 どいつもこいつも当てにならない。

「で、実は俺もダメ元で立候補したんす。成り上がりのチャンスだと思って。そしたらあっさり、閻魔様からお前やれって言われちゃって」

 もしや、はめられたのではあるまいか。カンダタを救おうとしたのは慈悲のあらわれに他ならないが、閻魔からすれば面白くないだろう。カンダタに罪人の烙印を押したのは閻魔自身なのだ。お釈迦様の行いは、その決定を覆すようなものなのだから。閻魔の顔に泥を塗ったに等しいのである。

 いや、もっと根は深いかもしれない。以前、地獄に堕ちた公務員がクーデターを起こしたことがあった。閻魔に代わって地獄の王となったその男は湯水のように金を使い、地獄の予算をすべて使い果たすと今度は極楽への侵攻を開始した。公務員の上司の説得によって事無きを得たが、どうも話がうまく運びすぎている。クーデターの黒幕は釈迦なのではないか。閻魔がそのように考えていると、風のうわさで聞いたことがあった。

 その公務員も最近ようやく引退したと聞いている。なんでも借金がすさまじい額で、とても人間界では返済できないという。ふたたび地獄極楽を制圧しにやってくるかもしれない。

 要するに閻魔は、自分を地獄に落して極楽を乗っ取ろうとしているのだろうか。まさか公務員と手を組んで!? だとすれば、閻魔が阿修羅を弁護人に選んだのも腑に落ちる。この莫迦には弁護などできないと踏んでいるのだろう。

「俺まじがんばりますから! お釈迦様の弟子みたいなもんだし、リングでは蜘蛛の化身で通ってるし。蜘蛛の糸殺人事件の真犯人は俺が暴いてみせますよ。じっちゃんの名にかけて!

「ちょっと待って……」

 突っ込みどころが多すぎてどうにもならない。

「リングって何なの」

「あー、まだ言ってなかったでしたっけ。最近俺、プロレス始めたんすよ」

 イケメン仏像ブームが下火になってきたから、最近女子に人気のプロレスに触手を伸ばしたのだという。守護神のくせにプロレスやってる莫迦がいると聞いたことはあるが、まさか阿修羅だとは思わなかった。そういえば悪魔なんとかいう団体に属しているらしい。改心したんじゃなかったのか。

「サンシャインってやつとコンビ組んでるんですけどね。あいつったらおでこと胸に光輪のタトゥーなんか入れちゃって。信仰心半端ないっすよねー」

 入場テーマはRADの「おしゃかしゃま」らしい。NIRVANAも捨てがたかったが、グランジおやじを喜ばせても仕方がない。女子に受けるのはRADだと踏んだらしい。どうでもいい。

「いろいろ思い出してきたぞ。お前最近、周りに阿修羅男爵って呼ばせてるらしいじゃないか」

「ややややや、それお釈迦様の勘違い! ディーノじゃあるまいし!」

「ディーノは男爵じゃなくて男色だろう」

「えー、お釈迦様って案外世間知らずなんですねぇ。本家本元は男爵ディーノなんですよ」

 向かって左側の子どもっぽいほうの顔で、得意げに踏ん反りかえっている。だんだん苛ついてきた。邪鬼にでも頼んでぶっ飛ばしてもらおうか。

「だいたいお前さ、インド出身って言ってるけど本当なのかね。日本にも阿修羅って名前の、二頭身の餓鬼がいたって聞いたことあるぞ。とんでもない悪たれで、有害図書指定されたとかって」

「いやー、阿修羅なんてどこにでもある名前ですからね。平安時代とか知らないし。仏教守護神一筋だし」

 と言いつつこの男は、ヒンズー教バラモン教ゾロアスター教にまで見境なく首を突っ込んでいる。

「最近コーポレートガバナンス・コードの影響でどこの宗教も社外取締役ほしがってるんすよ。俺みたいに有能だと、あっちこっち引っ張りだこで、阿修羅は一人じゃない、四人いるなんて都市伝説もあるくらいで」

「お前のは有能じゃなくて、八方美人なだけだろう」

「違います、三方美人ですよ。はっはー」

 いい加減うんざりしてきたのを感じ取ったのか、阿修羅は突然表情を変えた(中央の顔に戻した)。いつになく真剣な面構えだ。

「真面目な話、俺、トークなら誰にも負けないつもりなんすけどね。3人分しゃべれるし、お釈迦様のためなら舌ひっこぬかれたってかまいませんよ。でも閻魔は汚い野郎ですから、何たくらんでるか分からないし。お釈迦様も慎重に振る舞ってくださいよ」

 分かってるよ、そんなこと。急に弟子らしく殊勝なことを言ってくれるものだから、ちょっと涙が出てしまう。気が小さくなっているのだろう。

 杜子春という男に対する閻魔の仕打ちは広く語りぐさになっている。黙秘を決め込む杜子春の口を開かせるために、閻魔が用意したカードは二匹の獣だった。人の顔をした二匹の馬。それは畜生道に落ちていた、杜子春の両親だったという。若いころには地蔵になりすまして、菅笠をかぶせてくれた老夫婦の後をつけて略奪に及んだという噂もある。きっと今回も、卑劣な罠を用意しているだろう。

「それともうひとつ。カンダタが証人として呼ばれてるらしいんすけど、帝釈天の野郎も裏で絡んでるっぽい」

 阿修羅は帝釈天を目の敵にしているから、鼻息荒くなるのも無理はない。しかしそれだけではなさそうだ。

 負け続けの阿修羅だが、一度だけ帝釈天を追いつめたことがあった。逃げる帝釈天と追う阿修羅。このまま距離をつめて決着をつけようと思ったところ、突如帝釈天は向きを変え、再び阿修羅に挑んできた。彼の行く手には、道をわたる何万匹もの蟻の姿があったのである。取るに足らぬ命だとしても、弱者を踏みつけにすることはできなかった。帝釈天は逃げるのをやめて、勝ち目の薄い戦いに身を投じたのである。

 阿修羅と帝釈天の争いは、1対1の私闘ではない。お互いに軍勢を率い、生き残りをかけた血で血を洗う戦いである。蟻に情けをかけたがために、帝釈天の軍勢は皆殺しにされるかもしれない。それでも彼は揺らがなかった。

 そんな帝釈天のことだから、お釈迦様の行いに腹をたてているのだろう。

「俺は莫迦だから、どっちが正しいかなんて分からないっすよ。アリンコと自分の仲間を本気で天秤にかけた帝釈天が正しいのか、極楽を守るためにカンダタや罪人たちと一緒に、蜘蛛を見捨てたお釈迦様が正しいのか……」

「自分が正しいと思わなければやりきれないがね。しかしそれを決めるのは私でもお前でも、閻魔でも帝釈天でもない。切り捨てられたカンダタや蜘蛛なのだろう」

「俺はやっぱり、帝釈天の考え方は青臭くて嫌いなんですけどね。お釈迦様のほうがさっぱりしてていいや。でも女はああいう理想論振りかざすタイプがいいんだろうなぁ。あの野郎、俺の娘をたぶらかしやがって……」

 少々おかしな雰囲気になってきたが、阿修羅なりに気をつかってくれているのだろう。

 もうすぐ閻魔の前で尋問が始まる。何が起こるか分からないが、修羅場になるのは間違いあるまい。もとはといえば自分の軽率さが招いた事態なのだから、罰されても文句は言えまい。奈落の底へ突き落とされたなら、そこでカンダタと語りあってみよう。永劫をともにすれば、きっと分かり合えるような気がする。蜘蛛にも謝罪しなければならない。決して切れぬ糸をカンダタとの間に紡ぐことが、蜘蛛に対してお釈迦様ができることのすべてであった。

 

 

 三

 

「そうだお釈迦様、裁判の入場テーマどうしましょうか。『おしゃかしゃま』は俺のだからダメっすよ。修羅場っつったらやっぱ事変ですかねー」

「いや……」

「そっかお釈迦様世代だと、修羅場っつったらラ☆バンバか。ぶち上げてきましょう! わっしょーい」

「もうやめて……」

 お釈迦様の周りには、何ともいえない香ばしい匂いが絶え間なくあふれていた。極楽ももう夜近いのである。

ツルトンタン[補記]

太宰治の短編「トカトントン」のパロディです。

勢いだけで書いた感じ。他には何もございません。

「建築関係トントントン」でもいけるかもしれない……。

 

 

 

ヴィヨンの妻 (新潮文庫)

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ツルトンタン

 拝啓。

 一つだけ教えて下さい。困っているのです。

 私はことし三十三歳です。十年勤めた神田の出版社を辞めて、この夏から六本木の広告会社で働きはじめました。広告会社と申しましてもやっていることは色々で、健康食品も売りますし化粧品も売りますし、占い師も数人所属しております。要するに何でも屋のような、後ろ指をさされるほどではないけれど若干怪しいところのある会社でありまして、私はそこの企画セクションで紙媒体の編集をやっております。守秘義務もありますので詳しくは申せませんけれど、あなたが連載していらっしゃるフリーペーパーの仕事にも少し関わっております。

 あなたが書かれた小説をはじめて読んだのは、転職する半年ほど前でした。「コイのヤマイ」という小説でした。郵便局員の哀れな恋のお話で、私なぞにはちょっと難しくも感じられたのですけど、その小説のヒロインが花江といって、私と同じ名前なのでした。今時ずいぶん古くさい名前で私はこんな名前をつけた親を憎らしく思っていたのですけれど、あなたの小説を読んで、少しだけ自信を持てたのです。これまでまともな恋をしてこなかった私が、物語のなかとはいえ郵便局員に真実愛されたのですから。

 それ以来あなたの作品を探して読む癖がつきまして、いろいろ読んでいるうちにあなたが私と同じ埼玉の中学の出身であることを知って、胸がつぶれるような思いをいたしました。私の担任だった出口先生の名前をあなたの短編のなかに見つけたとき、とたんに私は少女時代の私にもどって、はずかしい初恋のあの瞬間を思い出したものでした。

 中学校に問い合わせて、出口先生にあなたとの仲を取り持ってもらおうかとも考えましたが、小心者ですから、空想するだけで終わりました。せめてファンレターで思いを告げようと、何度も筆を取りましたけれどどうしても拝啓のあとを書き進めることができず、そのたびに途方に暮れたり、ひとりで当惑したり、白々しい気持になったりしたものです。けれど今回は違います。目的がございますから。火急の用件です。何としてもあなたに答えていただきたく、このように長ったらしい手紙を書いているのです。

 教えていただきたいことがあるのです。本当に困っているのです。しかもこれは、私ひとりの問題ではなく、他にもこれと似たような思いで悩んでいる人があるような気がしますから、私たちのために教えて下さい。

 転職したことは先に書いた通りですが、六本木という場所柄か会社にはずいぶんきれいで華やかな女性が多くて、私のような地味で暗い女はどうにも気後れがしてしまって、生来の引っ込み思案もあってなかなか職場になじめなかったのです。仕事をしている間は気もまぎれますし時間が早く過ぎて行くのですけれど、問題は昼食時です。先生もよくご存知のとおり、女というのはトイレに行くにもコンビニに行くにも連れ立って歩かなければ気が済まないもので、当然お昼ご飯を食べに行くにも、部署の女性たちは一斉に立ち上がってヒールをつかつかと鳴らしながらやれブランドがどうしたやれ化粧品がどうしたと毎度同じ話をしながら社員食堂へと向かうのです。日頃ダイエットがどうしたと大騒ぎをしているにもかかわらず、我先にと食堂へ向かうのです。

 そうです、こんな私も彼女たちに誘われたのです。コピーを取りに行こうと席を立ったら彼女たちも同じタイミングで立ち上がってしまって、しかもそのなかのリーダー的女性と目が合ってしまって、一瞬の間の後で「佐藤さんも行きます?」と聞かれてしまって(封筒に記しているのでもうご存知だと思いますが、私の名字は佐藤といいます。あなたの最新作「片田舎のディレッタント」の主人公と同じです)。

 そうなったらもう蛇ににらまれた蛙のようなもので、私は赤べこのように不自然にうなずいてしまい、彼女たちの後をひょこひょこと付いていったのです。向こうは向こうで、まさか付いてくるなんて思わなかったんじゃないでしょうか。それほど私と彼女たちの間には、どこぞの海溝のように深い溝が横たわっていたのです。

 歩き方からして違うのです。彼女たちは背筋をぴんと伸ばして胸を張って、自信満々に歩いています。けれど私は、猫背なうえに目立たないよう忍び歩きなものですからまるで泥棒みたいで、情けないことこのうえないのです。それなのにいつの間にか私は彼女たちの歩き方を意識していて、歩調だけはぴったり合ってしまって、それもまた浅はかで惨めったらしい気がいたしました。

 社員食堂へ行くのはそのときが初めてでした。食堂というよりカフェテリアとでもいったほうがしっくり来る、おしゃれな場所でした。女性たちは「こんなに食べられるかしら」「残しちゃうかも」とおしゃべりしつつ、見るからにかわいらしい日替わりワンプレートを頼んでいました。女性らしさを誇示するためだけに存在するような量の少ないメニューで、大変だなあと私は他人事のように思ってしまうのです。ちなみに私は明太子のパスタにいたしました。我ながら、無難でつまらない選択だと思います。そうして箸やフォークを持つ手をよくよく見れば、爪が短いのは私だけです。こんなところにも女性としての差があらわになっていて、ひどく情けない気持になりました。

 さて食事中にどんな話をするのかと戦々恐々としていたのですが、恐れていた恋愛話などは始まらず、彼女たちが口にしたのはツルトンタンという聞き慣れぬ言葉でした。

 同じ職場に鶴田さんというちょっと雰囲気のいい男性がいるので、最初はてっきりその人のことを話題にしているのだと思いました。冗談まじりに「鶴田たん」と言っているのだと思ったのです。あるいはジャンボ鶴田の本名のことかもしれません。しかし誰の口からも、出てくる言葉は同じでツルトンタン。意地悪かと思いました。私の知らない暗号のような言葉を使って、話に付いていけない私をみんなで笑おうとしているのではないかと思ったのです。

 そんなとき、たまたま近くを通った佐伯部長が、「なんだツルトンタンの話をしているのか」と首を突っ込んで来たのです。あからさまに女性たちは迷惑そうな顔をしていて、佐伯部長は追い立てられた羊のように別のテーブルについたのですが、部長はそのテーブルの男性たちに「なあなあ、ツルトンタンが……」と始めたのです。

 なるほどみんなが知っている言葉らしい。私だけが知らない言葉らしい。しかしこんなことってあるでしょうか? ズンドコベロンチョじゃあるまいし、どうにも不自然だと思ったのです。そこで私は適当にあいづちを打ちながら、ツルトンタンの意味を探ろうとしたのです。

「行ってみたい」「今度一緒に行こうよ」というやり取りから察するに、ツルトンタンは場所のことだと考えて間違いないでしょう。次いで彼女たちが発したのは、「サンタマムミョウ」というこれまた呪文めいた言葉でした。

「サンタマ」は「三多摩」のことでしょうか。武州三多摩といえば言わずと知れた、新撰組ゆかりの地です。となると「ムミョウ」は「無明」、沖田総司の三段突きの別名である無明剣のことに相違ありません。何ということはない、彼女たちは今はやりの歴女なのでしょう。沖田総司のファンなのでしょう。少しミーハーな気がしなくもないですが、私も昨今の刀剣ブームにしっかり乗った身ですので、ちょっとだけ距離が縮んだような気がいたしました。ツルトンタンは私の聞き間違いで、似たような名前の隊士がいたのかもしれません。

 正面の女性が、うっとりした表情で「腰がすごいの」と言いました。お昼時に、しかもこんな場所でなんてことを言うのかと驚いてしまいましたが、これもどうやらツルトンタンの話の続きのようで、「腰が強いらしいわねー」と別の女性も同意しています。剣道では「腰を入れる」「腰で打つ」などと言いますから、きっと剣術も同じなのでしょう。刀剣女子の血が騒いでまいりました。

 しかしここから、話は不可解な方向へ転じるのです。彼女たちは口々に、「おいどん」「おいどん」と言ってくすくす笑っているのです。「おいどん」といえば薩摩隼人ではありませんか。確かに当初薩摩と会津は親しかったはずですが、鳥羽伏見の戦いを思えば薩摩は新撰組の憎き敵。「おいどんだなんて上品よねー」なんて笑っていますけど、薩摩のどこが上品ですか。芋侍はつけ揚げでも食べてりゃいいんです。

 そうしてそれから、彼女たちは口をそろえて「めんたいくりいむのおいどん」と言い始めました。さすがに私も何がなんだか分からず、「そうですね、えへへ」とイエスかノーかよく分からないような相づちをうつことしかできませんでした。

 それ以来、職場のあちこちからツルトンタンと聞こえてくるようになり、街中を歩いていてもどこからかツルトンタンと聞こえてきて、そのたびに私は反射的に追従笑いをしてしまうのです。この頃ではいよいよ頻繁にツルトンタンが聞こえ、牛乳飲んでもツルトンタン、判子を押してもツルトンタン、セザンヌを見てもツルトンタン、あなたの小説を読もうとしてもツルトンタン。光琳の燕子花のように、ツルトンタンが列をなしてやってくるのです。

 教えて下さい。この言葉は何でしょう。この言葉から逃れるにはどうしたらいいのでしょう。私はこの手紙を半分も書かぬうちから、ツルトンタンツルトンタンと盛んに聞こえているのです。そもそも私が転職したのだって、あなたのせいなんです。「死んでも、人のおもちゃになるな!」とあなたが短編に書いてらっしゃったから、私はずっと不義を働いていた前職の社長と別れて、勇気を出して新しい環境に飛び込んだのです。責任とって下さい。ツルトンタンの意味を教えて下さい。次の小説のタイトルがツルトンタンなんでしょう? 私には分かってるんです。「コイのヤマイ」の主人公が花江という名前だったのも、「片田舎のディレッタント」の主人公が佐藤という名前だったのも、この私をモデルにしていたからなんでしょう? 答えて下さい。お返事下さい。敬具。

 

 

 

 この奇異なる手紙を受け取った某作家は、むざんにも無学無思想な男であったが、次のごとき返答を与えた。

 

 埼玉県民なら山田に行くべきです。あそこは安くて量も多い。

葬送[補記]

Wake Owlの「Gold」という曲がありまして、

そのPVをもとに書いた短編小説になります。

黄色くざらついた映像が、黄砂のように感じられたわけですね。

 

 


Wake Owl - Gold [Official Video]

 

 

一見、醜と思えるものも、ある一瞬だけ美に転じることがある。

死と生が、影と光が隣り合わせであるように、

醜と美もまた隣り合わせなのでしょう。

作中で引用したターナーの「レグルス」は、

捕らえられた地下牢で両のまぶたを切り取られ、

太陽の下に引きずり出された古代ローマの将軍。

目を閉じることのできないレグルスは、

強烈な太陽光を直視して失明してしまいます。

彼は決して約束を破らぬ男として知られていたそうで、

その高潔さゆえに悲劇の渦に飲み込まれていったわけですが……。

 

本作の主人公はそこまで立派な人間でもないのですけど、

「約束」が物語のひとつのテーマでもあるので。

 

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いろいろとネタばらしになっちゃいました。